ラウル・ルイスの『見出された時』

日比谷シャンテ・シネ2で、ラウル・ルイスの『見出された時』。この映画は、長いとはいえ3時間に満たない長さしかもっていないはずなのだけど、観ている間は、一度この映画の世界に足を踏み入れたら、もう永遠にこのなかをさ迷っているしかないのではないかと思ってしまうような感じで、これは基本的に「始まり」があって「終り」があるという映画の時間の構造とは別の、気がつくといつ始まったのか忘れてしまっているし、いつ終わるとも知れないという、永遠に「中間」であるような時間のなかで、我を忘れてひたすら映像と音響を浴びているという体験なのだとふと勘違いしてしまうような時間の持続によって出来ているのだ。恥ずかしい話だけどぼくはプルーストの『失われた時を求めて』を最後までは読めてなくて、だから最終章である『見出された時』については蓮實の『物語批判序説』に書いてあることくらいしか知らなくて、この映画はプルーストなんてみんな読んでて当たり前でしょうという態度でつくられているので、バラバラに示される出来事の時間的な前後関係だとか、人物同士の関係なんかが正確に把握出来たとは言えないし、どの程度原作に忠実に構成されていて、どの程度映画的に再構成されているのか判断出来ないのだが、もともとこの映画は、迷路のなかに迷い込んでゆくように時間的に今いる自分の位置を見失ってゆくことによって、今流れている時間=現在の現実性が見失われることによって、返って、事物のひとつひとつの表情が、人々の仕種や振る舞いの生々しさが、人々が集まり犇めいて意味のない噂をつぶやき合っているそのざわざわしたざわめきが、固有の時間や、固有の意味から切り離されて、純粋に表情として、粒立ったリアリティーとして立ち上がってくるようなものなのだから、無理をして秩序だったものを探ろうとするより、いきなり知らない街に放り出されてしまった外国人であるかのように、途方に暮れながらひたすら細部の表情を読み取ろうと画面を追ってゆくことの方が大切だろうと思う。画面のサイズも、映画の規模や予算も全く異なるのだけど、ぼくはこの映画を観ていて鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』を思い出したのだけど、それはただたんにマルセルのヒゲのある顔つきや黒づくめのいでたちが藤田敏八を連想させるからというだけでなく、『ツィゴイネルワイゼン』もまた同じように時間のなかに迷い込んでゆく、客観的な実際の上映時間が分らなくなってしまうような映画であり、アクチュアルな現実を見失うことで、別種のリアリティーが浮かび上がってくるような映画だったからだろうと思う。だから『ツィゴイネルワイゼン』が明らかに幽霊の映画であるように『見出された時』も幽霊の映画であるし、例えば、ジョイスの『ザ・デッド』がそうであるように『見出された時』は死者たちについての映画であるのだ。マルセルは、敷石に躓いたり、ココアのポスターを見たり、マドレーヌの味を感じたりした、現実の世界での生々しい感覚によって過去を見出したと言うよりも、歳をとり、病気をして、文学にも自分の才能にも絶望して、ほとんど現実を見失い、半ば幽霊と化した人物として社交界へと復帰したからこそ、つまりそこでの現実の利害関係などどうでもいい存在としてそれに接し、それを感じたからこそ、そこに膨大な「過去」を見出すことが出来たということではないだろうか。

この映画は傑作というより、凄くヘンな映画だと言うべきだろう。この不思議さは一体何なのだろうか。文芸大作、オールスターキャスト、立派な装置、美しい撮影、流麗なカメラワーク、凝ったドルビーの使用、もうこれだけ並ぶとぼくなんかはうんざりしてしまうのだけど、それほど豪勢なつくりなのだけど、どこかインチキ臭いチープさを漂わせているし、その一方でいくらなんでもやり過ぎだと思うほど凝りに凝った画面が、しかし不思議なほど嫌らしさを感じさせなかったりもするのだ。もしかしたらこれは、あまりに堂々と「芸術」をやってしまっている、ということなのかもしれない。例えばアンゲロプロスみたいなヨーロッパの監督だと、ここまであからさまに「芸術」しちゃうことが出来なくて、どこかで現実の(現代的な)問題とリンクしようとしてしまうのだろうけど。