岡崎乾二郎『ルネサンス・経験の条件』/第1章「アンリ・マティス」

岡崎乾二郎氏の『ルネサンス・経験の条件』、第1章「アンリ・マティス」を読んだ。これは、「批評空間」の臨時増刊号『モダニズムのハードコア』に掲載された文章が元になっている。この文章を「批評空間」誌上で読んだ時、そのマティスティツィアーノの解釈の説得力ある斬新さに驚いたものだが、この『経験の条件』という一冊の本の序章として置かれたものを改めて読み返すと、絵画というものが、ただ「視覚の労働」によってだけあるのだ、という事実を、これ以降の分析のために、その前提として提示する、という役割を担ってるのが理解できる。ここで言う「労働」とは、例えば柄谷行人が《カントのいう主観は、実は世界を構成する「労働」を意味している。》と書いているような意味においてである。岡崎氏は書く。《重要なのは、ゆえに一つのヴォリュームとして捉えようとすると、この建築の存在はたちまち希薄なものになってしまうということである。統一された三次元空間というのがここにはない。どの視野がとらえるプランも他の視野から切断さればらばらに遊離し現れる。視野の変化に応じた数だけの平面が次々と生起する。》《われわれの目をそこで労働させているときだけ、ヴァンス礼拝堂のばらばらになった無数の平面を1つに結びつけることができるだろう。》

「良い絵」(という言い方もどうかと思うが)というのは、それが実際に目の前にない時、それがどんなものだったかを思い出すのが困難である。このことは多少でも絵画に対する鑑賞眼のようなものが身についている人なら誰でも知っているだろう経験的な事実である。それは、作品というものは、それを観る者に「認識する」という「労働」を限りなく複雑に組織させる(脳のフル稼動を強制する、とさえ言えるかもしれない)装置としてあり、その「複雑さ」は、ある固有の作品だけが組織し得る「(その作品)固有の複雑さ」だからである。(その作品なしに、脳は「その複雑さ」を再現することができない。)そしてわれわれは、その作品の「複雑さ」の質を、ある程度は瞬間的に感覚によって捉えることができる。岡崎氏がどこかで、フリードの言い方を借りて、「それが読むに値するものかどうかは、実際に読んでみなくても分る」と述べているのはそのことなのだ。勿論、実際に読み込んだり、描き込んだりする「時間」(労働が行われている時間)こそが最も重要であるのは言うまでもないのだが。マティスが、仕事をしている時だけは神を信じている、と言う時に「信じているもの」とは、このような複雑さの質のことであり、複雑な認識の労働によって初めて顕在化されるような「世界」の様相のことなのだ。だから、作品というのは、様々な対立する要素間の対立を止揚し、ばらばらなものを統合するものではなくて、むしろ、我々の身体に備わっている、日常的な「行為の用法」によって系列化されてしまっている感覚の連合を解いて各要素をばらばらにさせ、それらに全く別の結びつきの可能性を与えることによって、それらを改めて複雑に錯綜させることのできる、「認識する」という労働の場を開くための装置なのだ。

上記のような「労働の場」こそが、岡崎氏が「あとがき」で書いている、「自分が見ている青が自分が見ている青と同じかどうかすら確かめることのできない」という条件のもとで、経験が、作品が、いかに組み立てられるのか、という問い、つまり《それに対応するいかなる外的対象も持たない経験、外在的な徴も差異もいっさい持たない経験の確かさを組み立てることが何故可能になりうるのか。》という、恐らくこの本の根底的な問い(と言うか、芸術の存在の条件についての根本的な問い)の、問われる場所であるはずだ。これはほとんど「宗教的な問い」と言ってもよいものだと思われるのだが、岡崎氏はこの問いに対して、徹底して「分析的」に迫ろうとするのだろう。

ところで、少なくともこの「アンリ・マティス」という章にかぎっては、直接的な批判の対象となっていて、それを乗り越えることが目指されているのは、グリーンバーグに代表される戦後のアメリカ式フォーマリズムであるだろう。それは簡単に纏めてしまえば、視覚性の徹底という公理と、ジャンルの分別の純化という原理の対立(矛盾)、という風に言うことができるだろう。純粋な視覚性を徹底すれば、絵画や彫刻というジャンルの固有性は確保され得ないし、ジャンルを先験的な形式として確保しようとすれば、視覚形式の純粋な緩用を拒むことになる。しかし実はこの二元論的な対立は、戦後のフォーマリズム独自のものではない。それは古典主義(知覚の形式=ジャンルは先験的に決定されており、主体はそこに内在化されているに過ぎない。つまり知覚形式が客体的なものとしてある。)とロマン主義(形式は偏差をもった個々の視点=主観的経験に還元される。つまり形式=ジャンルの客体性は失われる)との二元論的な対立の退屈な反復でしかない。つまり、フォーマリズムは、古典主義/ロマン主義という対立に還元され、解消されてしまうようなものでしかない。一見、「見えるもの」だけに根拠をおいた分析であるかのように見えるフォーマリズム的な見方は、実は往々にして単純な二元論的な概念図式(絵画/彫刻とか触覚/視覚とか物質/イリュージョンとか)に支配されてしまっているのだ。(しかし、ぼくもそうだし恐らく岡崎氏もそうだと思われるのだが、元々美術に興味を持つきっかけが抽象表現主義であり、それとセットになってるアメリカ型フォーマリズムの批評である訳で、岡崎氏は、フォーマリズムの批評の最良の部分によってフォーマリズムを批判するという構えをとっている。結局まともな美術批評はそこにしかないのだ。)それに対して岡崎氏は、決して二元論的な分析には納まらない、ルネサンスの視覚革命が発見してしまった視覚の根元的状態、移り気で散逸的な、「通常の感覚から言えば理不尽にも感じられる錯乱的な振る舞い」を対置し、それについて詳しく記述=分析する。例えば、カルル・ヴァンローの絵画に観られる、1つの画面のなかに異なる関心に没入している複数の人物が同時に描かれるという特質、ティツィアーノの絵画における、まったく異なる位相の記述(描写)が同時に並行し存在するという事態、マティスの絵画において実現されている、視線を受け取めるために設定されているべき基底的空間が不在なために、視線が手ごたえも留まる点もなく彷徨い滑ってゆくばかりで、見ている対象に対しての自己の位置が確定できない、というような不安定な状態、等々。この具体的な記述=分析はとて刺激的なもので、実作者=画家の端くれであるぼくは、興奮しっぱなしという状態であるのだった。