●今日は、ちょっと良い絵が描けたっぽいので、とてもうれしい。それにしても、一日中ずっと絵を描いていると、こんなバカっぽい言葉しか出てこないことから考えても、絵を描くことと、言葉を使うことは、頭の使い方が根本的に異なるのだなあと思う。
●絵を描くには「時間」がかかる、とか、絵画の「空間」は、それが制作される「時間」(制作が内包する時間)によって決定される、というようなことをぼくはしばしば書いたり言ったりするので、ぼくの作品を観たことのない人は、ぼくの作品がいかにも「時間」を強調するような、じっくりと何層にも重く塗り重ねられた絵の具の層によって出来ているようなものだと思っている人が時々いるけど、ぼくの作品はそのような意味ではかなりあっさりしているし、層は薄いし、実際に描いている時間そのものはそんなに長くはない。いくら時間をかけて、丁寧に何層も絵の具が重ねられていたとしても、その重ねられ方があるひとつのやり方でなされるだけなら、その画面は単調なものになり、ただ工芸的な意味での「深み」が生まれるだけだろう。(そういうもの一概に否定はしないし、それによって生まれる「深み」も重要なものだとは思うけど。)ぼくの言う「時間」というのは、ひとつひとつのストロークやタッチが既に、同一平面上にありながらも異なる時間に存在する、というような意味であり、それは物理的な時間の長さというよりも、一つの画面が複数のモードの交錯によって成立しているということであり、あるいは無数の切断を含んでいるということなのだ。まず、画面をパッと観る視線が、ある一つのイメージなり感触なりを一瞬で捉えるのでなければ、人はそれ以上その作品を観つづけようとはしないので、パッと観である程度のイメージや感触が現れることは必要なのだが、重要なのはその時の(一瞬にしてあらわれる)イメージが決して閉じてしまったり完結してしまったりしないことで、パッと観であらわれたそのイメージは、時間差を伴うストロークやタッチの間に存在する隙間や切れ目に誘われて動きだし、それとともに(見えている)イメージが切り替わり、画面を観ている限り決してイメージ(視覚像)が完結することなく動きつづけるということなのだ。つまりほくの言う「時間」というのは、画面を観つづけている限りは「見ること」が決して「解決(決着)」しない状態がつづくという、その「時間」のことなのだ。(一望では全てを見渡せないということ。)しかしそれはただたんに構造を複雑にし、視覚にとっての「捉え難さ」だけをつくりだせば良いということではなく、画面を観続け、イメージが動きつづけるているとしても、その動いている間じゅうにある一定の「感性」とか「感触」のようなものが持続してあらわれているいる必要があり、そこで、常に(複数のスイッチが切り替えられ)動きつつも、その動きのなかでこそ浮上し、そして持続するある一定の感性や感触こそが、その作品の「内容」ということになるのだと思う。ただその、メタレベルとして浮上してくるような「内容」を超越的に掴むような視線は観者にも作家にも与えられることはなく、あくまで複数のチャンネルを切り替えつつ、愚直に見続ける(あるいは描きつづける)「時間」の持続のなかで、手探りするようにして得られる予感として、「内容」が浮かび上がってくるのが感じられるだけなのだ。そのような作品を制作するための実際の「時間」も、常に「観ること」の複数のチャンネルを切り替えつつ進行させなければならず、ぐっと入り込んでは切断し、また新たに仕切り直して入り込み、またそれを切断するという、短いスパンでの切断をいくつも差し挟みつつ、しかしそこに持続する(ある来るべきイメージの)「予感」がずっと保持されていなければならないのだ。