青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』

05/03/03(木)
●『傷口にはウォッカ』の書評のために、それ以外の大道珠貴の小説をいくつか読み返しながらも、それと平行して、青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』を読む。
●『四十日と四十夜のメルヘン』は、日本文学の系譜としては後藤明生から阿部和重という流れに連なるような小説のように思う。つくりとしても『インディビジュアル・プロジェクション』に近い感じがある。他者との接触が限定された人物による独白調の文の連なりが、世界の滑らかな進行に亀裂を生じさせ、その亀裂が蓄積してゆくうちに、そこでなされている記述と「現実(その記述を支えるもの)」との対応関係があやしくなり、集積され山積みになった亀裂がなだれるようにして「反転」が起こり、その「向こう側」に突き抜けて行く。こう言ってしまうと分かりやす過ぎるが、亀裂の蓄積や増殖の運動には、独自の感触がある。記述は、安易に妄想や幻想へと流れてゆくのではなく、むしろ事柄をしつこいくらいに詳細に追ってゆくことで、亀裂は深まって行く。ここでは(例えば阿部和重のように)、世界が陰謀に満ちているというような世界観(思い込み)によって妄想が暴走することはなく、日常的な小さな亀裂は、小さなままで蓄積されてゆく。前半部分を読んでいる時の(世界の表面に触れる時の手触りの)感触は、保坂和志の『揺籃』に近い感じもあるのだが、『揺籃』では、歩いたり電車に乗ったりして、人物が動いて行く(移動する)ことによって、小説が動く感じがあるのだが、『四十日と四十夜のメルヘン』では、人物の空間的、身体的な運動や移動の感覚によってよりも、あくまで記述が積み重ねられることによって、何かが動き、別の回路が開ける。この小説における人物の行動範囲や視野はきわめて狭いのだが(なにしろ同一の日付の四日間の日記がくり返し書き直される)、その狭さによってこそ物事な多様な側面が浮かび上がり、そして、ふいに思いがけない方向への回路がひらかれる(ビラを捨てるために青森まで行ったり、上井草がクロードとクロエのフランスに接続されたりする)。身体的な空間感覚や運動感覚ではなく、(恐らく作家の博識による)思いがけない方向への接続=短絡が、この小説に独自の運動(と、運動の交錯による深まり)を生みだしていると思われる。
●世界と私との対応関係が割合滑らかに進行している時は、小さな亀裂は特に視界に浮上することなく、私の行動や判断の滑らかさのなかに吸収されてゆく。しかし、小さなものであれ、いくつかの失調が重なると、その滑らかさ自体が怪しく感じられるようになる。私は世界にある規則性を見いだしていて、このようにはたらきかければ、このような反応がある、ということを、だいたいのところで予測しつつ行動している。しかし、そこに失調が紛れ込むと、私が世界に対して持っている「法則性」が、客観的なものではなく、たんなる思い込みに過ぎなかったのではないかという不安に襲わる。そのような小さな不安は、実際には我々がもっている多様な(多方向からの)知識や経験を立体的に総動員して、何とか現実に対応することで、辛うじて回収され(「私」は崩壊には至らず)、潜在的なものに留まる。(逆に言えばこのような不安こそが、私の世界に対する感受性を繊細にし、その反応を「柔軟なもの」にするだろう。)だがこの不安は、まさに(この小説に出てくる)「ビラ」のように、それ自体としては些細なものだとしても、いつの間にか部屋のなかに入り込んで来て、果てしなく増殖するし、しかも、簡単に「捨てる(外に出す)」ことが出来ない。この小説のリアリティを支えているのは、このような「ビラ(紙片)」の増殖・蓄積(への恐怖)が、即物的な事実としてもリアルである(実際にぼくは自分の散らかった部屋を見ながらそう思う)であるだけでなく、同時に、ビラの即物的な感触が、亀裂(潜在化した亀裂の記憶)の集積・増殖、そして何より、その崩壊の予感や恐怖(つまりそれは、私が世界に「対応している」ことに対する保証のなさへの恐怖)と、生々しく繋がっているところからきていると思う。現実と、それを記述すること(文)との対応関係の不確かさは、現実と、それに対する私の知覚や認識の対応関係の不確かさへと繋がる。そしてそれはたんに不安に留まらず、私の行動(世界へのはたらきかけ)の失調をもたらす。「私」という機能が、私の行動の滑らかさによって様々な矛盾や亀裂が吸収されることで成り立っているとすれば、それは「私という機能」そのものをも失調させるだろう。この小説がきわめて「身近なこと」を詳細に記述することからはじめられているのには、そのような不安を解消し、恐怖を消そうとする(主人公=話者の)意思によるだろう。(手に触れられる「身近なこと」からはじめることで立て直そうとする。)しかし、「身近なこと」の詳細な記述はむしろ亀裂をあらわにし、記述と現実の対応の不確かさを際立たせる。「身近なこと」の詳細な記述は、同一の日付をもつ日を、いくつもの別の一日であるかようにたちあげ、その詳細さは、様々な短絡的接続(記憶)をよび起こしもするから、時間や空間の同一性までもが怪しくなる。
●しかし『四十日と四十夜のメルヘン』は、そのような不安や亀裂、失調などをことさら強調したり、それによって「私」が崩壊したりする様を描いているのではないし、現実と記述との対応関係の不確かさに乗じ、短絡的接続を駆使して、魔術的な別世界を構築しようとしているのでもない。この小説から浮かび上がってくるのは、世界との関係が不確かなまま、不安や亀裂を抱え、失調の危機に瀕し、崩壊の恐怖に怯え、時には機能のいくらかの部分を失調させながらも、辛うじて全面的な崩壊を免れて踏みとどまり、現実とのか細い通路を確保し、何とか生きてゆこうとする(ゆくしかない)、そのような生の感触であり、リアリティであるように思う。(『四十日と四十夜のメルヘン』に同時に収録されている『クレーターのほとりで』については、この日記の04/09/17〜18(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/yo.40.html#Anchor2850297)に書いています。)