「この私」、歴史、一神教

柄谷行人の言う「この私」の「この性」、一般性/特殊性という対立の外にある固有性(単独性)、確定記述の束に回収されない固有性とは、つまり、とりたてて飛び抜けたところのないありふれた「私」の交換不可能性ということで、この「この性」を保証するのはおそらく「一回性」ということだろう。それは、歴史のなかのある地点に生まれ、いつかは死ぬという限定された存在としての「私」においてしか機能しない。柄谷氏は「作品」というものについて、作品が引用の織物でしかないとしても、その時、そのように織られた、という一回性が刻印されている限り、その作品は(引用の織物には還元されない)固有性をもつのだ、というようなことも書いていた。ここで、作品のかわりに私を、引用の織物のかわりに確定記述の束を代入することも可能だろう。だから、このような柄谷的「この私」を成立させるためには、循環する時間と輪廻(多神教)を停止させ、(一直線に進む時間としての)歴史と一神教をたちあげる必要があるだろう。他でもあり得たのに実際にはこうだった、という一回性は、何度も循環してくる現在や、何度も生まれ変わる私の上では作動しないからだ。樫村晴香楳図かずお論によれば、輪廻(多神教)とは「死の受け入れ(死の隠蔽)」であり、楳図氏は、誕生の瞬間(私と世界が分離し、私から世界=他者に向けた最初の問いが生じる場)に固着することで、輪廻を拒否し(輪廻の能力を欠き)、むき出しの現在と死とにさらされつつ(死を拒否することによって、より直に死と向かい合いつつ)、「私とは何か」を執拗に問い続けるという特異な一神教をうちたてる、という。(しかし楳図かずお的「私」は、記憶=歴史を少ししか持たない「私」つまり「子供」であり、それは一方で「私(生誕という外傷)」を強く保持しつつも、もう一方で、ニーチェの言う動物的な生=「すぐさま忘れてしまい、瞬間瞬間にじっさい死んだり、夜や霧のなかに消えたり、永久に消滅したりする」に、きわめて近くにまで接近するようにも思う。)つまり、前世も来世もなく、現在の生のみがあり(そしてその「現在」とは、線的、不可逆的に進む「歴史」のなかの一点であり)、いつかは完全に消えてしまうような「私」だからこそ、「この私」であり得る。
●しかし、現在のテクノロジーと資本主義が我々を取り囲む「環境」は、「歴史」や「一神教」をなし崩しにする。シュチュエーションに応じて、様々な私を解離的に使い分けることが強いられ、常に一歩進んだ(ワンランク上の)新たな私へと進化することが奨励され、テクノロジーによって与えられる人工的な環境のなかでいくらでも「別の私」になれるという商品が満ちあふれている。一方で、屈辱的な環境での労働を強いられ、しかし他方では、お金を出せば、いくらでも(私の欲望にどこまでも忠実に)「違った私」をたちあげられる環境のなかに身を置くことも可能である。(資本主義のもとでは「輪廻」こそが「お金」を生む。)このような生の環境において、ありふれているとともにかけがえのない「この私」を可能にするような、歴史と一神教(「歴史」は一神教のもとにおいてはじめて可能になる)をたちあげることは、相当に困難なことのように思える。(現在が、「歴史の終わり」の後の時代であるという「気分」には、強いリアリティがある。それはあくまで「気分」であり、そのような「言説」に巻き込まれることをぼくはあくまで拒否したいのだが、しかし、そのような「気分」はぼく自身のなかにも相当根深くあることは否定できない。)
●逆説的なことだが、「私」が安定して作動している人(つまり、精神分析的に言えば、「幻想」が有効に機能している人)ほど、「私の外側(他者や世界)」を理解し、受け入れることが可能になる。「幻想」は、私と世界との安定した関係を保証するものだが、その「幻想」の機能こそが、「幻想」が文字通り幻想であることを理解させる。つまり「幻想」は、現実の過酷さから「私」を守るものであると同時に、「私」が現実の過酷さを受け入れる(認識する)時の支えとなるものでもある。「私」が安定して作動していない人ほど、アイデンティティーを強く性急に求めるため、「私の外側」を容認できない(その余裕がない、つまり「想像力」が欠如してしまう)ので、理解不能なものを排除する。このような意味で、「幻想」「抑圧」「去勢」といった、精神分析的な概念は、現在、とても重要なものに思える。