『大塚康生インタビュー・アニメーション縦横無尽』

●『大塚康生インタビュー・アニメーション縦横無尽』(大塚康生森遊机)。職人や技術者の話は、聞き手が上手く話しを引き出しさえすれば面白いに決まっている。特に、そのジャンルのパイオニアとなればなおさらだろう。(ウェブで読める神山健治のインタビューで、インタビュアーが「『鉄腕アトム』が昭和38年で『ハイジ』が昭和49年だから、『鉄腕アトム』から11年しか経ってないんですよ。」「それなのにあの脅威のクオリティが」という発言をしていて、ああ、たった11年なのか、と驚いたのだが、大塚氏は、まさにそのような時期にバリバリ第一線としてその過程のなかにいたわけだ。)この本では、インタビュアーが、かなり細かい話題に突っ込みながら(職人の話では、細かい、具体的な話こそが面白いに決まっている)、それが決してマニアックな匂いを漂わせず、閉じた感じにならない、というバランス感覚が素晴らしいと思う。それは、インタビュアーのバランス感覚であると同時に、インタビューを受ける大塚氏の人柄にもよるのだと思う。この本は、日本のアニメーションの歴史の内側からの記述であり、アニメーションがどのようにつくられるかの具体的な記述であり、そして、宮崎駿や高畑勳といった特異な天才の身近からみた肖像であるというだけでなく、そのような具体的な細かい話(こそ)が、そのジャンルに深く興味を持っているわけではない人に対しても開かれているのだ、ということを示している。
●よく、映画やアニメーションは集団制作なのだから、監督だけを「作家」とするのはおかしい、と言う人がいるけど、実際にそれを「作品」として観ると、多くの場合、やはり「監督」こそがその作品に最も深い刻印を刻んでいることが多いと思われる。しかし、一旦「作品」という枠をとっぱらってみた場合、そこには監督=作者という統制を越えた、複数の技術者たちの刻んだ印がみえてくるだろう。『ルパン三世』『侍ジャイアンツ』『ど根性ガエル』『未来少年コナン』という、作家も作品としての性質も(そして「質」も)異なるものたちに、明らかに何かしら共通する印がみられるとしたら、そこにこそ大塚康生という「絵描き」の刻印がある。(実際、ぼくが子供の頃、アニメーションの特徴だと思っていたもののいくつかは、大塚康生という人の特徴であったわけなのだった。)
●日本のアニメーションの大きな流れとして、一方に、あくまでもリアリズムを基本として「動き」でみせようとする東映動画的なものがあり、もう一方に、限られた記号的な要素の組み合わせで(止め絵や、レイアウトの視覚的効果などを最大限に利用して)みせようとする虫プロ的なものがある、というのは、アニメーションに詳しい人なら常識なのかもしれないけど、ぼくにはとても興味深いことだった。現在の日本の「アニメ」と呼ばれるものが圧倒的に後者の影響のもとにあるのはおそらく間違いなくて、よく言われる「(キャラクターではない)キャラ」というものも、お約束としての基本パターンの組み合わせとして作品をつくってゆくやり方の、高度に(?)発達した形態であるだろう。(余談だが、ぼくは最近『魔法先生ネギま!』というのをDVDで観て、ああ、「キャラ」というのはこういうものなのか、と腑に落ちた。キャラについての説明でぼくが最も説得力があると思ったのは、「新潮」の連載で斉藤環が書いていた「関係の関係を名指す」というものだ。)大塚氏は、この虫プロ的な流れを、自らはディズニー的なフルアニメーションを指向していた手塚治虫が、人材も技術力も時間も不足したなかで、『鉄腕アトム』を毎週放映するテレビアニメとして成立させる時に「受け入れざるを得なかった」ものとしているが、しかし手塚氏にははじめからそのような傾向(資質)が強くあり、リアリズムとは相容れなかったと思われる。手塚氏は「マンガの描き方」のような著書で、マンガは基本的なパターンの組み合わせで出来ていて、人間の動きも、まるでゴム人形のように自由にデフォルメされるべきだ、というようなことを書いている。
それに対し、大塚氏や宮崎駿などは、あくまで「人間を動かす」ことでみせようとするリアリズムで、キャラクターに対する考え方なども全く異なる。例えば大塚氏は、アトムはロボットなんだから、あんなに人間みたいに動くのは間違っている、あくまでロボット的に動かすべきだ、なんてことまで言うし、宮崎氏は、ルパンは泥棒だけど結果として何も盗まないことが多いから貧乏しているはずで、きっと四畳半のような部屋に住んでいるだろうから、そこまで描かなくてはいけない、とか言っているそうだし(宮崎氏の作品に特徴的なあの飛翔感は、常にそのような「重力」を意識していることによって生まれるのかもしれない)、さらに大塚氏には、(ディズニーなどの)欧米のアニメーションが、主に擬人化された動物を描いているのは「動き」に対する「逃げ」で(つまり、人間に変な動きをさせるとすぐバレるけど、擬人化された動物なら、変な動きも受け入れられる、ということ)、日本のアニメーションははじめから「人間」を「動かす」ことに取り組んできたからその点で回り道(誤摩化し)をせず「進んで」いる、というような発言もある。
しかし、このような二つの流れは、決して分離しているわけではない。無尽蔵に人材がいるというわけではない「業界」においては、必然的に互いに交錯し、混じり合って「作品」を成立させる。(おそらく、一人の人物のなかでも、この二つの流れは明確に分離されているわけではないだろう。)そして、その、相容れないものの交錯によってこそ、複雑な「作品」が生まれる。『ルパン三世』について語られる長い章で、「ルパン」の魅力が、その(混乱しているとさえ言える)製作過程の複雑な事情によっててもたらされた「重層構造」によるものだと語られていることが、その事実を示していると思う。