『フリクリ』

●最近、ちょこちょこと日本のアニメーションを観ているのは、なんといっても以前たまたま観た『フリクリ』が圧倒的に面白かったからなのだが、いろいろと手を出して観てみても、『フリクリ』ほどに面白いものはほとんどない。アニメーションの一般的な傾向として、マニアによって消費されることを前提にした、マニア向けの要素の組み合わせや、その書き換え(更新)によってのみ出来ているようなディープな傾向がある一方で、そこからの脱却を積極的に探ろうとしている傾向もある。しかし、マニアックな閉じた領域からの脱却を目指すような作品は、往々にして美学的なマニエリスムに陥りがちだと思う。一般的な「オトナ」の鑑賞に耐えられるとされるような作品の多くは、アニメーションだからこそ実現できる(主にSF的な)設定=世界観の面白さや物語の面白さと、美学的なマニエリスムが程よくブレンドされたような作品だと言えよう。勿論、それはそれで、(世界に通用する商品として)立派な物だし、面白くもあるのだが、ぼくが「作品」として興味を感じるのはそういうものではない。
●『フリクリ』は、あきらかにマニア向けにつくられており、マニアックなノリに貫かれている。「萌え」という言葉にはっきりと現れているように、マニア(おたく)向けのアニメーションの特権的な主題は性的なものであろう。おおくのマニア(おたく)は、性的なファンタジーが自在に展開される場として、アニメーションを消費している。そしてもう一方で、アニメーションが、漫画映画として子供向けの商品として発達してきたという歴史もあり、その必然によって、もう一つの特権的な主題に、子供の成長というものがあろう。『フリクリ』は、この二重の意味においてアニメーション的な「主題」の内部にいる。つまり、おたく向けで、子供向けの作品であり、その主題は、男の子の成長であり、思春期の男の子の性的な妄想とその強い力動である。『フリクリ』が、空疎な美学的マニエリスムに陥ることがないのは、アニメーションが「アニメ」である限り縛られてしまう、アニメ的主題の磁力の圏内でつくられているという理由もあると思える。この作品は、アニメがアニメである必然性にあくまでも忠実なのだ。
●実写とはことなるアニメーションは、全てが一から描かれ、構築されなければならない。あらかじめ。全てがイメージでありファンタジーであることが強いられている。それは、実在の人物や、実際にある風景を直接捉えることが出来ない。そのことがアニメーションの自由さであると同時に貧しさでもあろう。アニメのキャラクターは、実在する人物(俳優)という存在に縛られることがなく、例えば、撮影当日の俳優のコンディションなどに左右されることはないが、その分、世界の深さとの繋がり、世界との関係、作品のあり様の根拠、を失いがちであろう。しかし、アニメーションは視覚的なものであり、視覚的な感覚の実質を観客に直接的に示すことが出来る。それは(ラカン的な意味での)想像的な領域を直接、顕在化させ得る。
●『フリクリ』が、圧倒的なアニメーション的技術と、歴史的に蓄積された(マニアックな)アニメ的表現(つまりマニアックなノリ)が高密度に圧縮された作品でありながら、美学的なマニエリスムにも、ある特定の傾向を持った者の性的な幻想を満足させるためだけのファンタジーにも流れてしまわずに、リアルな実質を実現できているのは、男の子の成長と、性的な妄想の力動という(かなり一般的な)主題にあくまで「縛られて」いて、その重力から逃れることがないからだと言える。つまり、そのような主題によって、現実との関係、作品を見る観客の身体的な記憶の領域との関係が保たれている。(『少女革命ウテナ』が女の子のための作品であるように、『フリクリ』は男の子のための作品であると言えるかも知れない。)しかし、男の子の成長なんていう話は、しばしば鬱陶しいお説教となってしまいがちでもある。事実、『フリクリ』においても、脚本やお話のレベルでみれば、お説教の域を出るものではないかもしれない。それを打ち破っているのが、マニアックなアニメ的表現の即物性であり、高度なアニメーション技術なのだと思う。以前にも書いたことがあると思うが、『フリクリ』にはあからさまな(つまり陳腐な)性的な比喩が溢れている。それは例えば、バットやギターがペニスを意味していたり、男の子の頭部に、まるで不意の勃起のような突起物があらわれ、そこから射精されるようにロボットが出現とかするし、カレーがスカトロの比喩として使われたりさえしている。しかしそれが、情緒もへったくれもない、アニメ的な即物的な表現として、しかも(動きや展開も含めて)圧倒的な視覚的密度で実現される時、比喩は比喩を越えた視覚的実質的な感触をもち、しかもそれが性的な感触を残すものであることから、視覚以外の感覚へも短絡的に接続され、非常に強い感覚の質を浮上させるのだ。それは一方で、あくまで男の子の性的な力動や成長する身体(無意識)のダイナミズム(不安定さ)の「表現」でありながらも(つまりそこに現実的な根拠、現実世界との接点を持つが)、同時にそれを超え、それとは別種のものへと広がって、別のものへと結びつき、変質した、作品固有の感覚的実質でもある。(『フリクリ』では、男の子の頭部からロボットが出現する理屈として、右脳と左脳との思考の差異、差延が、異次元へのチャンネルを開くのだ、ということになっているが、この作品そのものも、比喩という言語的な連鎖と、それとは別種の起源をもち、メカニズムを持つ、視覚的な感覚の質とが、「短絡」されることによって生じる、ズレとか抵抗感とか軋轢のような感覚が、作品の特異的な実質、作品という特異な身体を形作る。そしてこの感覚的な実質は、現実的な風景や人物を観る=感じるのと同等な強度をもつほどのものだと思える。)
●『フリクリ』は、何度観てもその度に凄いと感じる奇跡的な傑作だと思う。この作品は、アニメ好きの人たちには有名なのだと思うけど、一般的には、例えば、宮崎駿大友克洋押井守、あるいは『エヴァンゲリオン』程には観られて(知られて)はいないと思うのだが、それは何とももったいない話だ。ぼくは『エヴァンゲリオン』よりも(あるいは『オネアミスの翼』よりも)、『フリクリ』の方が圧倒的に凄いと思うのだけど。