『be found dead』(宮沢章夫総監督)

●『be found dead』(宮沢章夫総監督)をDVDで観た。5話からなるオムニバスだが、冨永昌敬による第四話と、宮沢章夫による第五話の最後の風景ショット以外はまったく面白くなかった。(宮沢氏による第三話は、きっちりと作り込まれていて、さすがによく出来ているとは思ったけど、それは面白いというのとは違う。)基本的に、面白いと思えなかった作品について考えても仕方がないのだけど、気になったのは、何故、最後の風景ショットが面白いのか、ということだった。(冨永氏の作品については、『be found dead』の一部というより、冨永作品として考えた方がよいと思われるので、ここでは触れない。)この作品は、郊外を(あるいは東京を)舞台にした、日常的な、ありふれた物語が語られ、その一部に死体が紛れ込んでいる、という仕組みが(冨永作品以外は)共通している。死体はいわば、ありふれたお話のなかにある、「ありふれた」には回収されないものの具現化されたようなものとしてあり、ありふれたお話が、死体の存在によって異化され、別の様相を呈しはじめる、というのが狙いなのではないかと思う。死体は、ありふれたお話という表層から抑圧されたものであり、しかしそれは、その表層のどこかに、予期せぬ形(死体)で顔を出す、と。その、抑圧されたものの視線(存在)から見返されることで、「ありふれた」ものが逆照射され、不穏に揺らぎだす、と。(この構造を最もわかりやすく図示しているのが第三話だろう。)しかし実際には、どの作品も、死体はたんにスパイスのようなものとしてしか使われていなくて、ありふれたお話が、それ程冴えているわけではないやり方で組み立てられていて、それを何となくピタッと決めて終わらせるために、締まらない味を引き締めるスパイスとして死体が召還されるというのに過ぎない感じなのだ。第五話にしても、電気屋の一家の生活を、水という物質の質感になんとなく死の匂いを匂わせつつ、しかしどことなく締まらない感じで淡々と描き、最後に若い女性の死体を出すことで、なんとなく何か言ったような気分になる、という以上のものとは思えない。ここで死体は、たんに抑圧されている(不在である)何者かの存在を示す(その存在を引き受ける)空虚な記号であるに過ぎず、どんなに瑞々しい青とともに現れようと、それ自身として積極的に何かしらの質感を示すことはない。(死体の纏っている衣服の青は、その後に示される風景の、空の青のようには実質のあるものではないだろう。)それは「死体」という文字とそれ程かわることはなく、そこに見えない何者かがあることを示しつつも、それは死であり不在であるという形で不穏な雰囲気のみを駆り立ててすぐ、言葉によって言葉の内部に再び回収される。(そして、郊外の女子高生の孤独な死といった、共有されやすい物語に落ち着こうとする。)実際そこに写っているのは本物の死体であるはずもなく、俳優が死んだフリをしていたり、血塗りのまぶされた人形が置かれているだけであろう。(このことに意識的であるから、おそらく冨永氏だけは画面に死体を登場させない。)
それに比べ、その後に示される風景は、実際にそこにあるものであり、そのなかで人が暮らしている環境の一部であり、そこから物語が生まれるマトリックスでもあるだろう。そこで暮らす人々は日々それを目にしており、その感覚的な実質は、それを意識しようがしまいが、それを目にする人の気分の基底をかたちづくってさえいるだろう。そのような風景が、車や電車の車窓からカメラで捉えられた、非人称的で大掛かりな横移動で示されるとき、いつもその内部にいて、いつも目にしているはずの風景を、異なった見方で、異なった側面として目にすることになる。この時に浮上する感覚的な実質は、そこから物語が生まれるものであると同時に、その物語(言語的な回路)によっては全てを語り尽くすことの出来ないものとして、現れるのではないだろうか。つまり、実質的には風景こそがこの映画では「死体」の等価物であり、言語に回収されない純然たる視覚としてあること(例えば「水」が「死」の匂いという意味を漂わせているのとは異なっている)で、「死体」が負うであろうと期待されている役割を担っているのだと思われる。(ただ、風景のショットにかぶせられている「詩人」によるナレーションは全く面白くないと思う。それは、風景という実質のある死体の等価物を、物語の内部に落としこもうという欲望が感じられる。)