07/12/26

●引用、メモ。《主体は対象の一次元である》こと、について。デュシャンの二つの作品(「大ガラス」と「1.落下する水、2.照明用ガス、が、与えられたとせよ」)と、アクタイオーンの神話(ディアーナの水浴)との関係について。オクタビオ・パス「★水はつねに★複数で書く」より。(《》内が引用、()内はそうではない。)
《われわれの見るものは、われわれの欲望のイメジだ。「絵をつくるのはそれを見るひとびとだ」。しかしオブジェもまたわれわれを見る。もっと正確には、われわれの眼差しはオブジェのなかに包括される。わたしが絵を見るということが絵をつくるのは、わたしがその絵の一部になにることを受け入れるという条件においてのみである。》
(例えば、「....が、与えられたとせよ」を観る時、そこで描かれた股を開く女性のイメージは、それを観る者が、扉の穴から中を覗くという行為によって、はじめて露になる。「覗く」という行為がイメージを生む。しかしその時、観者は、「見る主体」ではなく、強制的に作品のメカニズムの一部にされ、「覗き屋」の役割を演じさせられている。女性のイメージは「覗き屋」を必要とする。)
《(デャシャンの作品における)裸体を見つめる眼差しと、この眼差しのなかにそれ自身を見つめる裸体との弁証法は、いやおうなしに古代異教の大いなる神話のひとつを呼び起こす。ディアーナの水浴とアクタイオーンの失墜である。》
《アクタイオーンの陵辱は過失であり、犯罪ではなかった、とオウィディウスはわざわざ語っている。彼が女神の水浴を目撃するにいたったのは、欲望によるのではなく、運命によるのであった。ディアーナも共犯者ではない。アクタイオーンの姿を見たときの彼女の驚きと怒りは純粋だった。しかしピエール・クロソフスキーが卓抜たる論文のなかで示唆するように、女神は自分自身を見たいと欲求しており、これは誰かほかの者に見られることを暗示する欲望である。それゆえに、「ディアーナはアクタイオーンの想像の対象となる」。この作用は(「大ガラス」の)「花嫁」のそれと一致する。彼女は(「大ガラス」の一部である)「眼科医の証人たち」という手段をとおして自分自身に自分自身の裸体のイメジを送り、同じことをディアーナはアクタイオーンを通して行う。眼差しは汚す。そして処女の女神は汚されることを欲する、とクロソフスキーは指摘する。》
(「....が、与えられたとせよ」の扉の奥で股をひらく女性のイメージは、誰のものでもない誰かの視線に向けて股を開いている。しかしその扉によって閉ざされたイメージは、ただイメージ自身だけでは自らを支えられず、未だ「見られ得る」という潜在性に留まる。そのイメージは具体的な誰かに「覗かれる」ことによって、イメージとして生まれる。つまり、それを覗く者は、そのイメージを顕在化させるために、イメージの生成のために奉仕させられている。「覗く」という労働を強いられる。それは、両性具有でもあり、複数の固定されない姿を持つ狩りの女神ディアーナにとって、たまたま誰かに見られてしまうことによってしか、自身のイメージを確定できないことと対応する。ディアーナは見せようとしたのではないし、アクタイオーンは見ようとしたのではない。しかし、アクタイオーンが「見てしまった」ことによって、そこに偶発的な一つの回路が生じ、アクタイオーンは(ディアーナが欲している)イメージのために奉仕する者の位置へ自動的に位置づけられ、ディアーナの回路の一部へと包括される。)
《アクタイオーン神話とデュシャンのふたつの作品の類似は、すでに指摘した。凝視する者が凝視され、狩人が狩られ、処女は自分を見る男の視線のなかに自分を見る。デュシャンのいう「往復運動」は、彼のふたつの作品のみならず、その神話の内部構造にまさしく照応する。アクタイオーンはディアーナに依存する。彼は彼女自身を見たいという彼女の欲望の道具である。同じことは「眼科医の証人たち」の場合にも起こる。。それはまったくの往復運動である。「花嫁」は幽霊、不可視の実在の投射である、とデュシャンは何度か語っている。「花嫁」は「瞬間的な静止状態」「寓話的外観」である。クロソフスキーは、ディアーナの本質的肉体もまた不可視であることを指摘する。アクタイオーンの見るものは、外観、一瞬の肉体化なのだ。ディアーナと「花嫁」のなかに、アクタイオーンと「眼科医の証人たち」が包括される。ディアーナと「花嫁」の現れは、誰かが彼女を見ていることを必要とする。主体は対象の一次元である。その反射の次元、その眼差しである。》
(「彼らは彼女を見る彼ら自身を見ながら、「花嫁」に彼女のイメジを送り返す」。「....が、与えられたとせよ」で裸体のイメージを覗く者は、ただその裸体を見ているだけではなく、それを覗いている自身を意識し、自身を見てもいる。まず木の扉を見、それに近寄って穴から中を覗く者は、まさに数歩前の自身の視線によって、覗いている自分が見られていることを感じるだろう。このような分離と、アクタイオーンを鹿へと変身させ、それによって自身を自分の犬たちによってかみ殺させるものとは、どのような関係があるのだろうか。)
●ここまで書いてふと疑問が湧いた。ここでオクタビオ・パスは「往復運動」と書きながら、独身者と花嫁の関係を、花嫁が優位のものとしてみている。花嫁こそが、「不在の実在」を反映するもの(反映ではあっても、より「真実」に近いところにある反映)で、それを見る独身者たちの眼差しは、その反映を生むための「反映の反映」という位置に置かれる。独身者たちは、花嫁のメカニズムに包括される。しかしここで終わっては、たんに(見る者が主体で、見られる者が客体だという)主客を逆転させただけで、「往復運動」にはならないのではないか。
「大ガラス」において、花嫁は、独身者たちの視線によって裸にされることを必要とし、独身者たちは、裸にされる花嫁のイメージを必要とし、互いに相手(の視線-幽霊)を必要としながらも、この両者は決定的な地平線(窓枠)によって分けられ、互いに孤独で、触れ合うことは出来ない(しかしこのガラスには銃弾が撃ち込まれ、ヒビもはいっているのだが)。だから、どちらの世界も他方を包括することのできない分離して並立した世界であり、かつ、表裏一体となって分ち難く結びついている、というのが、デュシャンにとってのリアリティなのではないだろうか。ここにあるのは、解決されない(終わることのない)互いに反映し合う構造であり、一方から他方へ、他方から一方へという往復運動があるのみで、そこには花嫁の側の優位という着地点はないのではないか。(ガラスの支持体はあやうく、この世界全体は壊れてしまうかもしれないという感触はあるのだが。)しかし重力はあり、上下はあるかのようだ。これはデュシャンの世界が、完全には観念的なものではないことを示すと思う。