●立川シネマシティ・シネマ1で、『エヴァンゲリヲン新劇場版・破』、二回目。いやあ、面白かった。二回目だから、物語とかは大体分かっているので、ロボットアニメとしての面白さを堪能した。確かに、この作品は、オリジナルのテレビシリーズに何の思い入れもこだわりもない人が観たら、文句のつけようもなく面白い作品なのだろう。この作品について、あれこれ文句言っている自分が馬鹿みたいに思えるほど、「人を楽しませるためのコンテンツ」として完璧に近いように感じられた。日本のアニメってほんとにすげえな、と思う(日本のアニメが凄いのではなくて、ガイナックス宮崎駿がとびぬけて凄いということなのだが)。この達成の凄さをバカにする人は、たんにバカなのだと思う。勿論、好き嫌いや趣味というのはあると思うけど、誰が観たって凄いって分かるものだ(音楽のセンスは別として)。これは、大きな資本が注入された結果として凄いのではなく、何人かの優れた職人の手仕事の成果として凄いのだ。
二回目を観て思ったのは、これは、『エヴァ』の庵野テイストから鶴巻テイストへの移行ということなのかもしれない、ということだった。シンジ-レイや、シンジ-ミサトの関係から、ほぼ母子関係的なニュアンスが洗い流されて、男女関係的なニュアンスが濃厚になっているのも、鶴巻テイストのためなのかもしれない(とはいえ、それはやはり作品全体の構造とは齟齬をきたすことは避けられない、そもそも『エヴァ』においてユイの存在を完全に消すことは出来ないはずなのだ、しかし、ここまでの「新劇場版」の展開は、出来うる限りユイの存在を軽くしようとしている)。オリジナルでは、ミサトと加持くんとの過去の含めたアダルトな関係に、シンジやアスカはまったく立ち入ることが出来ないのだが、新劇場版では、むしろ加持くんはミサトをシンジに譲ろうとしいてるかのようだ。ラストで、シンジがレイを救い出そうとする場面なども、ほとんど『トップをねらえ2!』みたいだった(「わたしの特異点をお姉様に」の場面にそっくり)。つまり、オリジナル版『エヴァ』と『新劇場版』との関係は、『トップをねらえ!』と『トップをねらえ2!』との関係とパラレルだということかもしれない。改めて、エヴァのデザイン(そのフォルムやカラーリング、拘束具の下の気味悪いぐちゃぐちゃなど)が、いかに優れているかということも思い知らされた。走るエヴァ、ジャンプするエヴァ、キックするエヴァ(この作品では、アスカは一貫して「キックする」キャラなのだった、エヴァでも生身でも)に、呆然と見とれるばかりだ。これもまた、ひたすらロボットを動かそうとする『トップ2』に近いテイストだともいえる。
とはいえ、ぼくとしては、やはり「凄い」とばかりは言ってられなくて、一定の違和感は消せない。
二回目を観る前に、オリジナルシリーズの20話から最終話までをDVDで観直したのだけど、終盤の急速に内省化してゆく流れは相当鬱陶しいし(シンジはともかく、アスカの内省的な落ち込みはやりすぎだと思う)、特に、最後の二話は、今観るといいかげんにしてほしいとしか思えなかった(90年代というのは「メンヘル」の時代だったのだなあ、とも思った、「現代美術」もそうだったし)。とはいえ、『エヴァ』をあくまで「作品」として観るのならば、繰り返しになるがこの最後の破綻は必然的なものであって、こうなるべくしてこうなっているのであって、これを否定するのなら、『エヴァ』という作品全体を否定するしかなくなる。オリジナルの『エヴァ』が、幼稚で、マザコン的な作品なのは誰が観たって明らかで、だからこそ、そこを指摘して批判したって批判したことにはならなくて、だったら最初からそんなの観なけりゃいいじゃん、という話にしかならない。ひどく幼稚で鬱陶しいにも関わらず、そこに、そう言って切り捨ててしまうことの出来ない強い力があるからこそ、そこを認めざるを得ないからこそ、ゲーッ、と思い、うんざりし、嫌いだとさえ思いながらも、ついつい惹きこまれてしまうのだ。幼稚なくらい母性的であることは『エヴァ』の致命的な欠陥であるのと同時に、力の源泉でもあり、作品の核でもある。それがなければ作品として成り立たない。そこを認めなければ「批判」さえ出来ない。「新劇場版」では、そこを、鬱陶しくない程度に、突っ込まれない程度に、病的ではない程度に、バランスよく回収していて、それは、「今」エヴァをつくり直すとすればそうするしかないだろうし、人を楽しませるコンテンツとしては、その態度はまったく正しいのだが、そこにどうしても違和感を感じざるを得ないのは、『トップをねらえ!』とオリジナル版『エヴァ』との、作品として刻まれたものの強さの違いということかもしれない。
とはいうものの、庵野-鶴巻という関係には、ただならぬものがあるのだなあとは思う。