ドゥルーズが『シネマ2』で、「定理」と「問題」の違いについて書いているところが面白い。《定理が原理から結果にいたる内的な関係を展開するのに対して、問題は外部の出来事を、剥離を、付加を、切断を介入させ》る。《これが問題に固有の条件を確立し、一つの「場合」を、または複数の場合を決定するからである》。問題が表現するのは個別性(場合)である。そして次のことこそ重要なのだが、《問題のこのような外部は、物理的な世界の外部性にも、思考する自我の内部性にも、還元することができない》。つまり「外部」といわれる時にすぐさま安易に想起されるような外部とは別の外部性のことなのだ。《キェルケゴールがいうように、「魂の深みの動きは、心理学を武装解除する」、まさにそれは、内部からやってくるのではないからである》。おそらくここで「問題」といわれていることこそが、我々一人一人がそれぞれことなる身体をもって世界のなかにいること、そして、作家一人一人がそれぞれことなるスタイルをもっていることの意味と、密接にかかわる。《一人の作家の力量とは、彼がこの問題的な、任意の、しかし決して恣意的ではない要素を、つまり恩寵あるいは偶然をいかに認めさせるかによって測られる》。作品が、それに先行してあるものとしての、時代(現代)、公共性、正しさ、理念という「公的な問題」の要請に従う時、それは定理を指向するものとなり、問題の問題性(外部性)が消去されてしまう。
ドゥルーズは、問題と定理のちがいを、パゾリー二の『テオレマ』と『ソドムの市』を例に説明する。これは、これらの映画を観た者としてはとても分かり易い。
《パゾリー二の『テオレマ』における演繹もこの意味に解されなければならない。外部からの使者は、そこから家族の全員が一つの決定的な出来事や情動を経験し、問題の一例を、あるいは超空間的な形象の断面を構成するような審級なのである。それぞれの場合、それぞれの断面が、ミイラ、麻痺した娘、愛欲の追求において凍りついてしまった母親、目隠しして自分の画布に小便する息子、神秘的な空中浮遊の虜になってしまった女中、動物となって自然に帰る父親として考察される。彼らに生命を吹き込むのは、ある外部の投影であるという事実であり、これによって彼らは、円錐の投影または変身としてたがいに浸透しあうのだ。反対に『ソドムの市』においては、もう問題が存在しない。外部が存在しないからである。パゾリー二は生けるファシズムなどを映画化しているのではなく、小さな村に閉じ込められ、純粋な内面性にまで縮小され、追い詰められたファシズムを映画化しているのだが、それはサドの証明が展開される監禁の状況に一致する。『ソドムの市』とは、パゾリー二が望んだ通りに、純粋な死せる定理、死の定理であり、一方『テオレマ』は、生ける問題である。》
これが書かれる「思考と映画」という章では、映画が「精神的自動装置」となることで思考に思考しえないものが導入されるという事態が考察されているのだが、普通に考えれば「死せる定理」の方こそが「自動装置」であるように短絡してしまうのだが、ドゥルーズは逆に、「問題」としてあることこそが、映画を「精神的自動装置」へと促すというように書いている。《思考を知に、あるいは思考に欠けている確信に引き戻すどころか、問題的な演繹は思考のなかに思考されえないものを注ぎ込む。それは思考をあらゆる内面性から引き離し、その中に一つの外部を、その実質を蝕む還元しがたい裏面を穿つからである》。ここでの「外部」もまた、「生ける問題」によって穿たれる外部であり、物理的な外部とはことなる、「魂の深みの動き」こそが「外部」からやってくるというような意味での外部である。
だから、「精神的自動装置」としてあることとは、あくまで、この世界のなかで「生きる」ということに関わり、そして「問題」とは、我々一人一人がこの世界のなかで生きる時の、その「存在様式」の表現であり、その選択のことでもあるのだ。機械化-非人間化、あるいは動物化-非人間化することこそが「内面化-死せる定理」となることで、「精神自動機械」となることとは、それとは真逆のことである、ということらしい。
《問題の特徴とは、それが一つの選択と切り離せないということである。数学において、一つの直線を二つの等しい部分に分割するということは、一つの問題である。われわれはそれを、等しくない部分に分割することもできるからである。二等辺三角形を円に内接させることは一つの問題である。一方直角を半円に内接させることは、半円の中のあらゆる角は直角なのだから、一つの定理なのである。ところで問題が本質的決定にかかわるものであり、数学的事項にかかわるのではないとき、選択はますます生きた思考と不可測の決定に一致することがわかる。選択はしかじかの項にかかわるのではなく、選択する人の存在様式にかかわるのだ。すでにパスカルの賭の意味とはそういうものだった。問題は神の存在あるいは非在の間で選択することではなかった。そうではなく、神を信じるものの存在様式と、神を信じないものの存在様式との間で選択することだった。》
神の存在と非在の選択とはつまり「正しさ」についての問いであり、神の存在(あるいは非在)をどのように証明、または説得できるのかということだ。しかし、神を信じるものとして存在する、という時、もはや正しさが問われているのではなく、それぞれ個別の生の存在様式こそが問われているのだ。仮に神が存在するとして生きるとすれば、それはどのような生として帰結するのか、というのが「問題」である、と。そのような、正しさに還元され得ない選択こそが思考に「外部」を穿ち(あるいは、その「外部」のはたらきこそが還元不能な「選択」を迫り)、「精神自動機械」としての生をたちあげる。そのような意味で、作品は「定理」としてではなく、「問題」として存在する。そのように書いているように読める。