●ゆるゆる、と、ぐだぐだ、とは、似ているようでいて、実はそのあり様が違うように思う。ゆるゆるとは、ある形(や構造)を形として成り立たせている張力や、形を形として支えている支点や要点の力が抜けている(あるいは分散されている)ような感じのことで、ぐだぐだは、むしろそれとは逆に、ある力の過剰によって、常識的な形、首尾一貫したものや理路整然と整理されたものに収まらず、そこから逸脱してしまう、という感じだと思う。とはいえ、ゆるゆるとぐだぐだとは決して対立概念ではないので、ゆるゆる、かつ、ぐだぐだ、というすごいことも可能である。「力」という同じ言葉を使っているので分かりにくいが、ゆるゆるで抜けている力とは、形を支える力であり、ぐだぐだで過剰である力は、生み出したり、発展させたりする力だから、形を支えている力が抜けつつ、何かを発展させてゆく力が過剰であるということは、あり得るはずなのだ。
人は、自分で思っているよりずっと(つまらない意味で)真面目で律儀だから、何かをするとどうしても無意識のうちに帳尻を合わせようとしてしまう。だから、本当に、ゆるゆるやぐだぐだができる人はとても稀なのだ。ゆるゆる風、ぐだぐだ風で、実は帳尻をちゃんと合わせている、というのは最低なのだ。というか、今回はゆるゆるで(あるいは、ぐだぐだで)行こう、という風に考えるのが間違っているわけで、自分が求めているもの、自分がやるべきこと、を、追及してゆくうちに、結果として、ゆるゆるとかぐだぐだというしかない、ある独自の質になってしまう、ということなのだ。それは外からの規定ではない。というか、外から与えられている形が(内在的必然によって)崩れてしまうというのが、ゆるゆるでありぐだぐだであるはずなのだ。
首尾一貫したこと、理路整然としたことなど、バカでなければ誰でもできる。というか、人はどうしても(無理矢理に、強引にでも))首尾一貫させたり、理路整然とさせたりして、帳尻合わせをしてしまうのだ。つまりそれは本当に理知的なのではなく、たんに言い訳なのだ。しかし一体誰への?それは社会に対しての、であると同時に、自分自身に対しての、である。それこそが外からの規定の力であり、おそらく権力なのだ。そこを越えてゆかないと、面白いことにはならない。しかし、そこを越えるというのは、おそろしく恐ろしい。こちら側(常識的な形)に、帰ってこられなくなってしまうかもしれないのだから。
●ぼくの今日の日記も、つまらない帳尻合わせをしてしまっている。本当ならば、最初の段落だけで十分であるはずなのだ。