●古本がとても安く売っていたのでなんとなく買ってしまって、今更ながら『ゲーテル、エッシャー、バッハ』を読んでいるのだが、面白い。
最初の方で、MUパズルというパズルが出題されて、しばらくそのパズルをやってみるのだが、割とすぐに、そのパズルが決して解けないものだと気づく。
《形式システムについて考えるときは、次の点がとくに重要である。それは、システムの中で仕事をすることと、システムについて表現や観察を行うことを区別することである。》
しかし、そうはいっても実際は、MUパズルを解こうとすること(システムの中での仕事)をしているうちに、MUパズルが決して解けないものであることに気づく(システムについての考察)。このように、「解」が求められたところとは別のレベルであらわれ得るのは、われわれのするシステムの中の行為が、ほとんど自動的にシステムについての考察を含むものになるからだろう。階層はナチュラルに破られる。
(おそらくこれが、もっとも単純な「内部観測」のモデルになるのではないか。)
●たとえば、「物語」のおもしろさというのも、このことと関係するように思われる。起承転結というのを、次のように考えることができるのではないか。起(要素と前提条件の提示--システムの提示)、承(提示された要素と条件の中で可能な展開--システムの中の行為)、転(前提条件が破られる--階層の破れ--システムそのものの考察)、結(前提条件が破られたことに対する事後的な正当化--システムの回復)。
つまり、システムの中での行為が、いつの間にかシステムそのものに対する考察へとレベルが移動し、しかし移動した階層がメタレベルにとどまるのではなく、「結」において、実はそれこそがシステムの中での行為であったという風に、再びシステムが正当化されなければ「オチ」がつかない、と。夢オチが嫌われるのは、それがメタレベルのままで終わるからだろう。しかし、メタレベルのままで終わるのではダメであるのと同時に、「起」の時点でのシステムと、「結」の時点のシステムとでは、システムそのものが変質していなければ、おそらく人は納得しない。
物語では、展開や題材のおもしろさやギャップや意外な結末をみるだけでは人は納得しなくて、システム・レベル1→システムの破れ(メタレベル)→システム・レベル2、というように、システム(地)そのものの変質をみせる必要があるではないだろうか。
(たとえばミステリにおいて、斬新なトリックと意外な犯人があるだけではダメで、そのトリックや犯人があかされることで「世界観」が揺るがされたり、変質したりするのでなければ、「面白い」とは感じられないのではないか。)
(たとえば、「ガリレオ」第一話において、事件→捜査→意外なトリックの解明、で終わるのではなく、その後に、トリックの実験→実験の失敗→犯人の隠された側面の露呈、という過程があり、視聴者が「犯人の意外な側面」によって世界観の揺らぎを感じることで、物語に説得力が与えられる。)
(あるいは、「リーガル・ハイ」第二期、第二話で、味方と敵側との裁判対戦の顛末があるだけでなく、実は敵は敵ではなく、裁判そのものが味方側の宣伝のために行われたものであり、それは敵側の罪滅ぼしだった、というエピソードが付け加えられることによって、物語の基底であった「対戦モード」そのものがひっくりかえされ、視聴者の世界観が揺らぐ。)
(たとえば、「ごめんね青春」には、このような「階層の破れとシステムのレベルの移動」が、ほとんど「場面単位」で次々に多数仕掛けられているようにみえる。「ごめんね青春」に限らず、最近のすぐれたドラマでは、「階層の破れとシステムのレベルの移動」が、一時間のなかに何重にも仕組まれていることが多い。)