2020-10-20

●濱道拓「追いつかれた者たち」(新潮)についてもう少し。この小説は、四組の二人組によって成り立っている。最初に出てくるのが、斉藤と田宮のペアで、この二人を支配するのが、千堂と陣内というペア。事件に巻き込まれるのが三島と女(名前が無い)のペアで、そして、事件を見届ける役割をもつのが、里谷と巽のペア。

斉藤・田宮ペアと、千堂・陣内ペアが、事件を起こす側にいる。ここで、斉藤・田宮ペアは、千堂・陣内ペアに「巻き込まれる」とこによって事件に加担することになる。つまり、能動側にいる受動的な存在だ。対して、三島・女ペアは、まったくの偶然から事件に「巻き込まれる」という意味で、事件に対して純粋に受動的な位置にある。そして、里谷・巽ペアは、(ほとんど)部外者であるのに、(半ば)積極的に事件に首を突っ込む。ただここで「ほとんど」「半ば」という但し書きがつくのは、彼らが事件にかかわる理由が、《当事者にさせられる前に、こっちから事の真相を確かめに行きたい》というものだからだ。二人は、何もしなければ(何も知らなければ)当事者にさせられてしまう危険があるから、先手をとって事件に関する情報を得て、当事者にさせられることを避けなければならないという状況にある(とはいえ、結果として第三者でいることは出来なかったのだが)。だから、半ば積極的(能動的)であるが、半ば「巻き込まれている」(受動的)という立場でもある。

つまりここには三種類の組成の異なる「巻き込まれ(受動性)」がある。それぞれが受動的な位置にあると同時に、(1)事件を起こす者(斉藤・田宮ペア)、(2)事件に巻き込まれる者(三島・女ペア)、(3)事件を受け止める---そして始末を付ける---者(里谷・巽ペア)、という三つの異なる立場(役割)にある(そして、同じ立場にあるペアの二人にも、それぞれ異なる性質-役割がある)。この三つの立場を統一させるような視点はない(この小説は、複数の関係者の---互いに矛盾する---証言を、第三者が《私なりに擦り合わせた》という形になっている)。この小説には、一本通った軸があるのではなく、三つの異なる軸があり、それらが接ぎ木されることで互いに支え合って、ペンローズの三角形のような形式を形作っている。このことが、この小説を難解なものにしていると同時に、面白いものにしているのだと思う。