⚫︎グレアム・ハーマンによると、実在的な物(実在的対象・実在的性質)はあらゆる関係、あらゆるアクセスから断絶していて、我々がアクセスできるのは、実在の幽霊のような感覚的な物(感覚的対象・感覚的性質)のみである。そして、そのような感覚的な物と真摯な出会いをすることができるのは、実在的な物のみである。だがもちろん、実在的な物そのものはあらゆる関係から断絶しているので、感覚的なものを通してのみ、他の実在的な物と出会うことができるのだ。これは、パッと読んでかんじるよりも複雑なことだ。『四方対象』には、次のように書かれている。
《私が木を知覚するとき、この感覚的対象と私は、私の心のなかでお互いに出会っているわけではない。理由は単純で、私の心とその対象は志向という働きにおける二つの対等なパートナーであり、それらを統一する項はその双方をともに含んでいなければならないからである。心が部分であると同時に全体であることは不可能である。その代わりに、心とその対象はともにより大きな何かに包括される。すなわち、両者はいずれも、私と実在的な木との関係を通じて形成される対象に内に存在する》(P179~180)。
ハーマン自身がどのくらい意識しているのかは分からないが、ハーマンが書いていることを、「字義通り」に整合するように受け取るとすれば、「実在的私」と「実在的木」とが「感覚的な物」の領野を通じて出会う、という出来事は、下の図のような構造になっていると言えると思われる。
(ここで、向かって左にある「実在的私」は、中央の「実在的私」と時間的にズレた存在として想定される。ハーマンの記述によれば、実在的な私と木を出合わせ、オブジェクト化するもの(原因)は「私」や「木」よりも《大きな何か》とされるので、左の「私」は「出会い(オブジェクト化)の原因」というわけではない。私と木とを出合わせるのは「神」かもしれないし、「客観(世界)」かもしれないし、「私ではない誰か」かもしれない。)
また、この構造はあくまで「私」が「木」と出会っているのであって、「木」が「私」に出会っているのではない。

常識的に考えたときに、単に黒い点線に囲まれた部分で描かれる出来事が起こっていると考えられる場合、実は、このような構造の出来事があるのだ、とハーマンは言っている(ように読める)。

ここに無理やりに、パースの記号の三項図式を当てはめると、下のような入れ子的な階層構造が発見される。この場合、階層二層め(紫色)の「記号」の部分を、我々は常識的な「(オブジェクトレベルの)出来事」と考えているだろう。だが、この図式(構造)が示すのは、出来事は左側ではなくて、あくまで「右側」で起こっているということだ。


ちなみに、この図式で、下の図のような「私の視点の反転」が起こると、「芸術的」あるいは「宗教的」に、すごいことが起こったことになる(これはまた「出会い(出来事)」とは別のこと)。

ハーマンは、芸術は基本的に「演劇的」なものであるとする。だがハーマンの言う「演劇」は、例えばマイケル・フリードが批判的に言う「演劇」とは違っている。フリードが美術作品における「演劇性」を批判するとき、美術作品の観者は、演劇における「観客」の位置にあることが想定される。しかし、ハーマンが、あらゆる芸術が「演劇的」であると言うとき、作品の観者(受け手)は、演劇における「俳優」の位置に置かれる(実在的対象としての受け手=私が、作品が投げかけてくる「比喩」をみずからの存在を賭けて演じることにより、オブジェクトとしての「芸術作品」が成立するのだ、と)。演劇において、俳優が演劇作品の一部であるのと同様に、芸術において、観者(受け手)は作品の一部である。観者(受け手)がいなければ、芸術作品はそもそもオブジェクトとして完結しない。ここで言われていることも、基本的に上の図式(構造)と同じことだろう。


ハーマンは、作品と観者(受け手)の両方があって初めて「物」としての芸術作品が完結するのだということを、水素と酸素によって「水」になるという比喩で表現する。水の性質は、水素と酸素の性質には還元できない。水の性質は、水素の性質と酸素の性質との単純な足し合わせではない。だから「芸術」は、物としての「作品」にも、観者(受け手)にも還元できない出来事として起こる。

(だがここでも、重要なのは、と言うか生々しいのは、右側の水素と酸素の「出会い」による変質であり、左で認識される「水」ではないだろう。)


⚫︎追記(スペースを無理やり付け足したので、見づらい図になってしまっているが…)。さらに「批評」ということになると、もう一つ階層が上がって、抽象度が増し、作品から遠くなる。おそらく、「社会」に接続し、「社会的」に流通し得るのは、この「批評」のレベルからであろう。故に「批評」は重要だが、だからこそ、その射程が、どこまで広く、深く、下の階層にまで届いているのかということが大きな問題となる。


