04/12/29

ロバート・アルトマンバレエ・カンパニー』をDVDで。この映画の面白さはアルトマンの空虚さにあると思う。実際にアルトマンがバレエやこの映画の題材にどの程度の興味を持っていたのかは知らないが、ここでのアルトマンにとってその題材や内容は(極端に言えば)どうでもよい、いくらでも交換可能なもので、ただアルトマンの技術、あるいはアルトマン的システムを作動させることだけに興味があるようにみえる。アルトマンには作家としての狙いや野心、やりたいことなどはほとんどなく、職人に徹するという言い方の「職人」という言葉ですら重過ぎて、ただ純粋な(空っぽな)システムがあり、そこに交換可能な題材が何でも良いものとして代入されているという印象がある。はじめから器があり、その器の形や容量に納まるだけの「内容」が、題材からきれいに切り取られる。アルトマンは既にかなりの高齢なのだが、それでも若いダンサーたちの日常や風俗などが活き活きと描写されているのは、アルトマンが若者の日常や風俗(の内実)を描くことになどほとんど興味がなく、ただ彼らを素材として自らのシステムを作動させようとしているだけだからこそ、そのシステムに「内容」が吸い寄せられるように充填される、ということなのではないだろうか。(例えば、カンパニーの代表者としてマルコム・マクダウェルのようなキャラクターを置くことが、アルトマン的システムを作動させるには不可欠であろう。彼のようなキャラクターが一人いて、あとはカンパニーの面々が複数存在すれば、彼らを交錯させることでシステムを作動させることが出来る。)
●アルトマンが、個々の人物や一つ一つのドラマを深く掘り下げるのではなく、人物が交錯し、ドラマが重なり合って分岐してゆく様を捉えようとするのはいつものことだが、それでも、この映画は他のアルトマンの作品よりも、個々の人物、一つ一つのドラマからやや離れた距離をとっているように思える。この映画では個々のエピソードは皆、軽く触れられるだけで流れて行き、互いに緊密な関係をもったり、複雑に絡み合ったりはしない。おそらくそれは、この映画がダンス=舞台を見せるシーンを多く持っていることと関係がある。つまり、ダンスを捉えるべき距離感というものがあり、この映画でのそれは、観客が観客席からダンスを観る距離よりはやや近いが、ダンスをダンスとは別物にしてしまうまでに近づき過ぎたりすることは決してしない。(例えば、ダンサーから滴り落ちる汗とか、踊っている時の顔や手先の表情のクローズアップなどを挿入すると、それは舞台で行われるパフォーンス作品としてのダンス(の表象)とは別物になってしまうだろう。)このようなダンスシーンでの適切な距離感が、ダンス以外のドラマのシーンにおいても、特定のエピソードに深く分け入っていったり、長い時間留まったりすることを抑制させ、この映画全体としての、エピソードに軽く触れて流れてゆくような調子を決定しているようにみえる。
●この映画に多少なりともアルトマンの作家としての刻印が押されているシーンがあるとすれば、それは主人公ネーヴ・キャンベルの部屋の空間的造形と、クリスマスの夜にカンパニーの面々によって演じられる余興のシーンだろう。特に、カンパニーの面々が、その代表や振り付け師、作品のための日々のレッスンの様子などのカリカチュアを仲間内で演じているクリスマスの余興のシーンはとても楽しく、この、ドラマの場面とダンスの場面の中間に位置するようなシーンにこそ、アルトマンの技量が存分に発揮されているように思う。あと、特筆すべきという程のアイデアというわけではないにしても、映画のラストが、舞台の反対側の袖にいるネーヴ・キャンベルに花を届けるために、部外者であるその恋人が、なんとカーテンコール中の舞台上を横切ってしまうというシーンで締めくくられるのは、とても気が利いているし、このアクション自体が、この映画のあり様そのものを簡潔に言い表していると思う。