展覧会終了とラカン

●展覧会、無事終了しました。観て下さった方々に感謝します。今回は、イベントがあったり、会期中にはじめての本が出たりしたこともあり、良くも悪くも派手な感じの展開で(いままでの展覧会とは「疲れる場所」が違うというか)、それを反映して、芳名帳には、ちょっと驚くような名前が並んでいたりするのですが(こういうことは、永瀬さんの企画力とインターネットの力抜きには考えられないのですが)、一方、作家以外の美術関係者(批評家とかキュレーター、学芸員とか)には、ほんんど観てもらえていないということもあり、この事実が、自分が置かれている現状をあらわしているなあと、改めて感じたりします。クラスで嫌われている奴が、部活やバイトを熱心にやってる、みたいなイメージでしょうか。でも、それはそれでいいと思うし、というか、ずっとそんな感じでやってきたのだし、まあ、それでやってゆくしかないのかなあとは思います。(とはいえ、ぼくにとって最も重要なことは「絵を描く」ことだ、ということは、まったくかわりないのだけど。)
●唐突にラカンを引用します。「私」は、私が期待した以上であったり以下であったりする、「意外な」「掘出しもの」としてしか、私の欲望と出会えない。
《躓き、瓦解、ひび割れです。話された、あるいは書かれた文のなかで、何かが躓いてしまうのです。フロイトはこれらの現象に目をひかれ、そこに無意識を捜すことになりました。そこでは、何か別のものが実現化されることを求めています。それは、意図的にみえながら、しかし、奇妙な時間性を持っています。このなかで生まれるものが---「生まれる」、つまり自らを作り出すという意味で生み出されるものが---たまたまの「掘出しもの」として現れるのです。フロイトの探索が無意識の中で起こることに出会うのはまずはこうしてです。
掘出しもの、これは同時に一つの解決ですが、必ずしもそれはうまくいった解決ではありません。しかし、いかに不完全な解決であってもこの掘出しものは、(略)あの特有な特徴で我われを感動させる何らかのものを持っています。つまりそれは「意外さ」です。それは、主体が越えられていると感ずるもの、彼が期待した以上であったり、以下であったりと感ずるもの、しかしいずれにせよ主体が期待していたものに比べれば破格である何かをもっています。
ところで、この掘出しものは、それが現れたときからすでに再発見されたものです。おまけにそれはつねにまた新たに逃れようとするもので、喪失という次元を打ち立てます。》
《このように無意識はつねに、主体の切断の中で揺らいでいる何かとして現れます。この切断から掘出しものが再出現してきます。フロイトはそれを欲望と同じものとしました。我われはさしあたり欲望を、主体が何らかの予期せぬ点で自らを把握するくだんのディスクールの裸のままの換喩として位置づけましょう。》(『精神分析の四基本概念』)