●「未来」というのは、誰にとっても未来でなければ成立しない。しかし相対論では、誰かにとって未来であるものが、別の誰かにとっては過去でもあり得る。すると「誰にとっても未来」というのがあり得なくなるから、この宇宙から未来はなくなって、すべて過去ということになってしまう。という話を聞いた。
●昨日のつづき。「永劫回帰の部屋」(折口子尚)について。
●「4」は、死後というより生まれる前の情景のような感触(リテラルには「夢」の場面)。あらゆる年齢の「私」(生まれる前に「あらゆる年齢の私」がいるのだ)が、僕たち私たちとして「新人研修」を受けるこの場面は戦場が舞台となり、大岡昇平「野火」を連想させる。ここでは、《雨は依然として湿原を曇らせ》つつ、大型爆撃機が《空の青に滲み》、同時に《暗闇の中で物音が起》るような、混沌とした時空である。ここで語り手の「私」は、無数にいる「僕たち私たち」のどの一点でもよく、特定の一点に定められない。この場面にいるのはほとんど「私」ばかりであり、「敵という概念」である米兵以外で、他者といえば「研修」の指導者でありこの場の管理者であるエリザーベトと、いきなり出現するルーだけであろう。ルーの登場は、「私」の視点とは異なる「ルーの視点」を導入させ、「僕たち私たち」のルーによる描像もあらわれる(ここで、「3」において「私」が、「あなた(ルー)にとってのあなた」として「顔のない肥満者」という外からの像を獲得したことが思い出される)。
ほとんど「僕たち私たち」としての同質な「私」ばかりの世界でただ一人、僕たち私たちのうちの一人のようであり、(「私」ではない)死んだ先輩のようでもある、やや異質な「私」も登場する。この異質な「私」は、《僕はもう死んでるけど》と口にする。ということは、あらゆる年齢の「私」が先在するこの生まれる前の世界の、年齢の最後に位置する「死後の私」ということなのだろうか(この余剰的存在が後にでてくる「無頼漢」の存在の先触れでもあるのか)。あらゆる年齢の「私」が既に存在し、死後の「わたし」まで既にいるとすれば、時間の流れはまさに「ている」と「た」という二種類のカードの巡回でしかないということにもなる。この異質な「私」は「私」に向かって、《逆らっちゃ駄目だし、諦めてもイカンということだ》という謎の言葉を残して消える。
●エリザーベトの指揮によって演習「走れメロス」がはじまる。無数の僕たち私たちから選ばれた一人が鉄棒にぶら下がり、彼が落ちるより前に、他の僕たち私たちは与えられた石を売って戻ってこなければならない。一人でも戻れば成功、失敗すればリセットして何度でもやり直し。この演習の目的は《あなた方に紛れ込んでいる無頼漢、いわゆる腐ったミカンを排除する》ことであるという。しかしここは戦場であり売るための相手(客)はいないし、いたとしてもそもそも石の需要などないだろう。
《エリザーベトが、鉄棒の磔にされたい私の立候補を待ったが、当然の沈黙が場を圧した。そこで彼女は激務好きの新人だった頃の私を指さし、断りにくい空気を誘導した。その私も、もちろんぶら下がるのは嫌であったが、押し返す胆力は無く「僕がやらずに誰がやります」と心にない忠誠を誓った。
私の弱さ凡庸さの全てがそこに起因したが、私事とは言え他人事なので放っておくと、その私は磔にされ、その他の僕たち私たちは、石の顧客を捜しに戦場へ散った。価値を生まない僕たち私たちに、お前は他にどのようなやり方があるというのだ? 逆らっちゃ駄目だし、諦めたらイカン?》
この《お前》とは、さっきの先輩のような「私」なのか、読者なのか、それとも神なのか。いや、ニーチェであろうか。この部分は、「私」がニーチェやルーに語りかける「創造」についての問いの裏側に張り付いている現世(世俗)的な感触でもあろう。
●そして、僕たち私たちは目的達成のあてもなく、泥のなかを進んでゆく。
《恐ろしい瞬間であった。他の僕たち私たちもこんなにひどい泥に漬かっているのだろうか。みなも私と同じだろうか。それが確かめたかった。僕たち私たちは叫びたかった。この時私の声を抑えたのは、叫べばエリザーべトにおこられるだろうという恐れだった。》
僕たち私たちが「私」へと変化する兆しがみられるが、それが恐怖と「叫びへの希求」としてあらわれている。皆も同じように恐ろしいのだろうかという思いが、皆から「私」を抽出し、叫びたいという感情が「私」の求心性を形づくる。しかし叫びは、エリザーベトという固有名をもつ存在(場の中枢?)への恐怖によって抑圧され、消えてしまう。
●そこへ突然、ルーがあらわれる。
《長身の女性だった。それはルーだったが、彼女にも自身がなぜ戦場にいるのか不明で、ただともかく腹が減っていた。ルーの前にいた集団は、人によっては「人間」と呼ぶかもしれないが、彼女にとっては、いかにもそれは或る意味では人間であったが、しかしもう人間であることを止めた存在、つまり屍体であった。》
ここで、ルーによって「僕たち私たち」が屍体として捉え直される。では、ここは生まれる前ではなく死後の世界なのか。ここでルーが空腹であるのは、死の瞬間の延期である「天国の便器での長い排便」を終えた後であるからなのだろうか。
《一人新鮮な肉を保っている屍体があった。頸動脈に花が刺さっていて、直立した花梗の上に、固く身をすぼめた花冠が、音楽のように、ゆるやかに開こうとしていた。その名も知らぬ熱帯の花は芍薬に似て、淡紅色の花弁に畳まれた奥は、色褪せ湿っていた。匂いはなかった。
「あたし、食べてもいいわよ」
と突然その花がいった。ルーは飢えを意識した。その時、ルーの右手と左手が別々に動いた。
僕たち私たちの一人が、戦場に現れた唯一の需要である女性に、石を渡そうとしたのだった。疲れた僕たち私たちにとって代金は後払いでもよかったのだ。
しかし、石を受け取ろうとする女性の右手を、彼女自身の左手が抑えて、受け取りを拒んでいた。ここに客があることの理由も不明だが、この抑制もさらにわからなかった。
ルーの左半身は理解した。自分はこれまで反省なく、草や木や動物を食べていたが、それらは実は、死んだ人間よりも食べてはいけなかったのである。僕たち私たちは歌を止めてしまっていた。》
ここで、ルーにとっては新鮮な花として、そして、僕たち私たちにとって無用の石として現れているものが何であるのかを、磔にされた「私」は気づいているようだ。
《雨が降ってきた。限界が近づいてきた鉄棒にぶら下がった私は、透明で小さな人が私の肉を削り喰って何か他のものに変換しているのを感じたが、その私を凹ましている小人達もやはり僕たち私たちなのだったから、私は私を削っていて、それが磔刑にされた私の疲労だった。
凹ますよ、凹ましますよそれでいいのだ万事よしという私の声が聞こえた。私はエリザーベトを打ち倒し、私を救うことのできる私を請い求めた。それは要するに私であって私でない無頼漢だった。なぜここには僕たち私たちばかりで私がいないのだ?》
ここで、決して「私」に至ることのない僕たち私たち(萌芽的中枢?)の身体である石=花は、エリザーベトやルーといった固有名をもつ「私」(中枢)へと吸い上げられつづける。この萌芽的中枢たちを効率よく飼い慣らし管理しようとするエリザーベトに対し、ルーの左半身は一瞬それを躊躇する。このシステムを破る「無頼漢」とは、僕たち私たちの一部であると同時にその外部でもある力のことだろうか。
そして「私」はとうとう、エリザーベトによる抑圧を振り切り、ニーチェのいる部屋の扉を開けることになる。
《作者同様、肯定できる箇所を一部の隙もなく失った凡庸な歌だった。だが、肯定とはいったい何だ? 問いが、僕たち私たちが過去に得た全ての凡庸さを、ミニチュア女性達の争いに既視感として凝集させ、吐き気を憶えた私は扉をあけた。》
凡庸さへの嫌悪が逆説的に「肯定されるべき非凡」への疑問を招き、疑問によって様々な凡庸さが凝集され、凡庸の凝集が吐き気となり、吐き気が叫びと同様の効果をもって、「私」という求心性が生まれる。この、凡庸さの凝集→吐き気へ至る力こそが無頼漢なのか。
●「5」では、凝集した「私」が扉を開け、とうとうニーチェの居る部屋に入る。僕たち私たちの凝集としての「私」には当然、複数の私への分裂の感触が含まれる。
ニーチェの居室には口髭を生やした巨大な幼児がいた。ニーチェの居室には口髭を生やした巨大な幼児がいる。皮膚の表面に浮かぶ油が人形のニスを感じさせる程、彼は静止し光に対する反射方向を保存していた。
しかし、目視できない巨大な鳥でも追うように、眼はゆったり動いていた。
「昨夜、久しぶりに君の本を読んだんだよ」
いきなり本題から入る。どうせ相手は聞いても分からないし、そもそもいきがかり上話すことになっただけで本当は話がしたい。》
ここには二つの分裂がみられる。一つは「2」にあったのと同様の《いきがかり上話すことになっただけで本当は話がしたい》というような、「私1」と「私2」との唐突な交代としての分裂。もう一つは「3」ででてきたような「ている(進行形)」と「た(完了形)」という二種類のカード(時制)の並列という形での分裂(引用の冒頭、同じような文が文末だけ変えて反復される部分)。
そしてさらに、「4」でみられた「僕たち私たち」の気配も消えていない。
《ふと、ニーチェの視線の先にある鳥が、私にも見える気がして追うと、おそらくその卵を野良犬が暖めていて、茫洋と漂う飢えた僕たち私たちが熱視線を送り愉快であるのに気づいた。》
つまり、「2」「3」「4」で示された分裂の全てを内包して「5」は展開されてゆく。その結果、以下のようなとてもおもしろい文の連なりを生む。
《床が思ったより柔らかいのか、私はなんだか私が眠くなってしまい、要するに賢さとは一種の眠りで、私にいる私を解放し、周囲に伝播していく催眠の一種と思ったが、気がつくとニーチェは、私を正面から観察している。
興奮した眠い私は、いつの間にか正面に入っていた。だが、もはやこのニーチェには昔日の創造性は無い。そう思うと晴れ晴れとした気持ちになったが、「きちんとした日本語を喋りなさい」という声が浮かび、日本語という言語を知らず戸惑いつつ続ける。》
●「私1+私2」であり、「完了形」と「進行形」の併置=落差でもあり、「僕たち私たち」の集合でもあり、その全てを含んだ「私」が、髭のある幼児であるニーチェと対面し、眠気とたたかいながら問いを問う。この一対一の二者関係における「私」の位置は揺らぎつづける。
《思いきってニーチェの頭上に手を乗せ、尋問する刑事の格好で顔を覗き込んだ。ここまでの非礼を自分が働いていることに驚こうとしたが無理なのであった。この機械は、もはや私を承認も否認もしない。ただ記録するだけであり、まさに私の望んだことであったが、望んだことである。》
《こうしてニーチェを見上げる姿勢は、私が奴の承認を待つ家畜のようで滑稽であったが違う。しかし、移動を止めたその眼は私を束縛する。眠ってはいけない。私は意地を張る。そもそも肯定とは何だ?》
《私は立ち、震えを止めるべく手をさしのべた。触りたかったのだ。触りたい。触って止めれば万事OKであるからだ。要するに、OKを与えている瞬間、相手は神で、神というのは二人の間に凝結するのだ。》
●ここで「私」がニーチェに向かって語っているのは「創造」についての話のつづきだ。既に世間では車輪は創造されているが、車輪を知らなかった人が再創造した場合は創造といえるのかという話の続きとして、逆に、世間が知らないのをいいことに、既にある車輪を自分が創造したことにするという例も考えられる。これはカンニングであり明らかに創造ではない。既に世間(宇宙)は知っているが創造者は知らない、と、既に(偽)創造者は知っているが世間(宇宙)は知らない、があり、真の創造とはどちらでもなく、創造者も世間(宇宙)もその中身を知らなかったことが新たに生まれることが創造の条件となる。
しかし、カンニングした者がカンニングしたことを忘れていたらどうか。宇宙もそれを知らず、カンニングしたものはそれを忘れていて、誰も検証できない。この時、二つの場合が考えられる。(1)Aはカンニングを思い出すまでは創造者だったが、思い出して以降は剽窃者となる。(2)Aが思い出したとたん、過去にまで遡って剽窃者となる。しかし(2)である場合、あらゆる創造が未来において(過去まで遡って全てが)剽窃へとひっくり返る可能性があるということになる。あらゆる創造が、創造であるかどうか未決となる。
《…ここから、永劫回帰に特徴的な、あの時制がでてくる。つまり「すでに、まだまだだった」って奴だ。確認する度に「すでに」ができる。だけども、その作業を終えられないから「まだまだ」だ。》
だがこの話は、「この話」だけではそれほどおもしろいということもない。次の話と組み合わされることで異なった意味をもつ。
●僕たち私たちの人生の履歴が完全に残せるようになったとする。その時、人生体験それ自体と、その履歴の想起は質としてほぼぴったり重なる。であるなら、今、経験している事柄が人生経験そのものなのかその想起なのかの区別がなくなる。これを解決するためには、「今」実際の人生でどのような状態であるかが(つまり現在の視点が)キープされ、その上で過去の履歴が想起されていることにすればよい。しかしここでより深刻な問題が発生する。その時、どのような「今」から過去を思い出しているのかという「今の視点」が混ざった過去=想起が、オリジナルの過去とは別にもう一つ記録されてしまうことになる。それが、過去を思い出す度にどんどん重ねて履歴に加えられる。《自分の過去なんだけど、知らない人がそこにいるようなもんだよ》。
これは要するに宇宙と神の関係についての話だ。神は既に宇宙のはじまりから終わりまですべて作っている。そして「現在」とは神が既に完成させた映画が上映されているようなものだとする。ではその映画は誰が観ているのか、そして、その「映画を観る」という経験(視点)まで「神が既に作った映画」にあらかじめ織り込まれ、含まれていると言えるのか、ということ。
《(…)もし神だったら、こうやって追加されるはずの可能な外部からの視点を、あらかじめ無限に足して、そんな無限を神にとっての過去として創造できるんじゃないかな。この場合「すでに」と「まだまだだった」が一致する。まあ、無限+一が、また無限みたいな話だけど、こうやってどこまでも外側においてかれる視点を内側に入れるわけだ。だからもちろん、こうして喋っている僕も、それを今聞いている君もその履歴に既に入っているし、もう死んでいる。》
●これが「創造」の話とどう絡むのか。
《(…)さっきの完全な履歴の話が効いてきて、体験している最中には、今まさに一回目の計算をしているのか、それとも終わった計算を再生しているけど、我を忘れ履歴にいるのか区別できない。君が生きているのかもう死んでいるのかもね。もっとも、視点の追加っていうのは、普通の足し算みたいじゃなくて、視点も考慮にいれた上で並べ終わった可能な全履歴に対して、そこに入っていない潜在的な視点からみた履歴を追加する、みたいな作業で、それが「一回目」なのかもしれないね。》
《だから、創造っていうのは、その潜在的な視点の一回きりの追加の瞬間なのかもしれないが、その瞬間にいるのか自分でも分からないっていうさっきの話はまだ生きてるわけだ。》
ここまでいくとすごくおもしろい。
(つづく)
●今日のドローイング。