●一昨日からのつづき。「永劫回帰の部屋」(折口子尚)について。
●私1+私2であり、進行形と完了形の落差でもあり、僕たち私たちでもある「私」が、それでも私という位置に定位できているのは、ニーチェと対面し、ニーチェに対して存在しているから、ということだろうか。《神というのは二人の間に凝結するのだ》。
《私は立ち、震えを止めるべく手をさしのべた。触りたかった。触りたい、触って止めれば万事OKであるからだ。要するに、OKを与えている瞬間、相手は神で、神というのは二人の間に凝結するのだ。するとニーチェの顔がもう一つ、ぬっと出てきて、現人神か代理の神のような位置を占めたが、もちろんそれはエリザーベトだった。
私は苛々して、至近距離にあった彼女の仮面を剥ぎ、エリザーベトの顔を露わにしたが、斜視であることを除き、どうということもなかったから、私が彼女の仮面を受け継ぐことにした。そして仮面を被ると大満足が私を襲ったのであった。これがニーチェである、ということなのだ。》
OKを与えている瞬間相手は神なのだという、承認(肯定)をめぐる二者の関係(「承認」によって「私」は定位され、承認した相手は神となる)は不安定であるから(事実「私」のニーチェへの態度は常に揺らいでいた)、自ら神=ニーチェの仮面を被ることで「ニーチェである私」となれば安定する。《仮面にこれだけ閉じ込められていると、肯定や承認のことなどどうでもよく、快活になり、神の問題を極めて身近に感じる》。
だがここで、「私」の提出した問いが、「私」自身に絡まってくる。仮面を被った「私」が我を忘れてニーチェの完璧な反復に没入するならば、「私」は消えニーチェだけが残り、一方、「私」という視点を残すのならばニーチェのn回目の反復であり模倣者(複製)で、「私」はn回目に生じた「視点」としてのみ存在し、ニーチェ+「私」の経験は「私」という視点によって純粋ニーチェとはいえないものとなる。つまり、カンニングした創造者とかわらなくなる。
《(…)履歴自体とそれを振り返る視点が混ざって、これはこれで、過去の完全な履歴の参照とは言えなくなってしまうしね。つまり、今を忘れると過去が現在になるし、今を入れると過去が書き換わる。おまけに見る度に他人というか複製が増える。》
この《複製》とはもちろん「私」のことだ。だから上の引用はつまり、「私」による「私」についての自己言及だと言える。ここでの「私」は、n回目のニーチェの参照によって生まれたn個目の視線=複製であると言える。だとすれば、私1と私2との分裂は、履歴(過去)とそれを参照する視点(現在)の分裂であるし、完了形と進行形の並立=落差もまた、履歴と視点の並立=落差であり、無数の僕たち私たちとは、履歴の参照の度に生まれ増殖し、幽霊のようにゾンビのように履歴に張り付く無数の視点たちだと言えるのではないか。
そしてこの考えを神や宇宙にまで拡張することで、次のような帰結に至る。
《創造の瞬間が一瞬っていうのは、人が神に持ち込んだ不遜なアナロジーなんじゃないかな。神にもきっと計算時間は必要だよ。だから、少なくとも一回は計算しなくちゃならないとしよう。だけど、その後は、例の今を忘れた記憶みたいに、自分の履歴を追体験してるだけなのかもしれない。たった一つの神が、我を忘れて自分の過去に対するあらゆる視点を辿り直している。輪廻転生ってやつだな。ただし、この場合、未来と過去を行き来するたった一人の神が、輪廻しているわけだ。だいたい輪廻なんて言い出した以上、一人で何個も体を使えるわけだから、魂の数は体の数より少なくできる。極端に言えば魂は一つでいい。》
たった一人の神(=ニーチェ?)が、既に計算が終了している(過去となっている)宇宙において、あらゆる視点をひたすら孤独に辿り直していて、その都度、新たな視点が複製として、余剰として、幽霊として、ゾンビとして、この宇宙に創造され、付け足される。とはいえ、この新たに創造される視点も、神にとってはあらかじめ折り込み済みである(昨日引用した部分を参照)。すべてが一人の神であり、すべてがニーチェであり、それ以外は視点(ゾンビ)にすぎない。しかしゾンビ(=私)は、神が過去を振り返る度に無限に増殖してゆく。
●以上をふまえて、下記の引用部分を読むととても味わい深い。ここで出てくる「私」は、どの私とどの私が同じで、どの私が別なのかが、もうよくわからなくなっている。それどころか「私」と「神」がほぼいっしょくたになってさえいる感じ。
《私に住む神が私から出て、自分の死を告げに僕たち私たちの所に向かいたがっている。私は私にうんざりで正直うざいから同居をやめたかったし、私も自分の死を告げにいくような神と一緒は嫌でなにしろ安定志向だからだった。なにしろ安定志向だからである。もちろん、その安定志向が私を結局自殺に追いやっただろう。私は私の気をそらすため、先ほど触り損ねたニーチェの表面振動に触れようと思うが、ニーチェの瞳は、不自然に開いた穴のように私を迎え、吸われる危険を感じやめた。》
●本作には、生々しい細部の感触があり、その主なものは「粒」と「眼差し」であるように思う。
「2」で、エリザーベトの口から床を埋めるほど大量に吐き出される(ルーの顔が描かれた)小さな白い粒。その場面の最後で、天井から差す光で浮かび上がる埃の粒。それらの粒は密度を増し水気を帯びて「4」で僕たち私たちの足を沈める泥となるし、やや大きくなって彼らのもつ石にもなる。そもそも「僕たち私たち」という存在が無数の粒や埃のイメージと重なる。
そしてまなざし。ニーチェの仮面の下から「私」に注がれるエリザーベトによる《喋る猿を嗤うような》まなざし。幼児となったニーチェの《目視できない巨大な鳥を追うよう》なまなざし。その視線の先にある「僕たち私たち」が野良犬の暖める卵に向ける飢えた熱視線。仮面を取ったエリザーベトの斜視。ニーチェの、《私を拘束する》まなざし、そして《不自然に開いた穴のように私を迎え》るまなざし。
粒は小さな球であり点である。眼球は球だが、まなざしはそこから生じる、ある「方向性」である。粒や眼球という物質に媒介される必要はあるが、点も方向も、それ自体は大きさをもたない。ある始点があり、そこから方向が出来する。そこにあるのは、最初の、そして最低限の他者の気配であろう。点も方向も大きさがないなら、限定された空間内でも他者の気配はいくらでも増殖する。神は(ニーチェは)この宇宙でたった一人だとしても、そこには砂粒のような他者の気配ばかりが無限に増殖してゆく。もちろん、その他者もまた神から分離するのだが、参照される履歴の内部にいる神にとって、参照する視点としての神は《知らない人》に過ぎないだろう。
この、「粒」と「まなざし」のイメージが合流したところに、おそらくこの小説でもっとも密度のあるイメージが出現する。演習「走れメロス」で鉄棒にぶら下がる役目の「僕たち私たち」の一人からの叙述。
《もはや空を見る力もない私は、鉄棒から大地を眺めていたが、現金なもので、そうなると先ほど宙を回転していた幼児らの眼が、地表に数多くあると感じ、砂埃を含む風で反射的に閉じるのさえ分かる気がした。(…)
あきらめて落ちる先の地面を値踏みしていると、私が値踏みするその眼も既に埋め込まれている箇所を見つけ、ではあそこに嵌まれば神のパズルも完成すると思った。その視点で見回すと、すべてがパズルで、ピースを囲む筋筋が入っている。希望だろうか、それとも絶望の徴だろうか。
筋筋はもちろん私の体にも刻まれ、各ピースが毛穴を一つ囲い、毛根部に一つずつ眼が生え違う周期で瞬くので、ずれた位相が、雪の結晶のような格子を描いては消した。そういえば菩薩というのは何しにくるんだっけ? と無関係な想念が浮かび、私はもはや限界にきていた。》
地面に無数の眼があり、その地面を見ている「私」の視線もまた、既に地面に埋め込まれている。そして、地表と同様「私」の身体の表面にも、毛穴の数だけ眼があり、それらは筋筋によって切り分られ、パズルのピースのようにばらけそうで、それぞれが違った周期で瞬きしている。点であり粒である眼は、同じく点であり粒である砂埃によって明滅するように瞬く。それらはまさに、参照され、辿り直される度に「私(宇宙)の外(しかし直ちに内側に織り込まれる)」に増えてゆくゾンビたちであり「そこにいる、知らない人」のまなざしであり、その視点の不気味な感触であろう。
●とりあえず、このくらいで。
●今日の机の上。