⚫︎CADAN大手町で、大岩雄典「抽象」。
この展覧会は「税」を主題とし、ボストン茶会事件と、マタイの召命(カラヴァッジョ)とを、それぞれを「喩」として再現した二つの空間と、そこに散りばめられた、スマホによってテキストを呼び出すNFCタグによって成り立つ。NFCタグによって呼び出されるテキストは、キャプションや基本情報の他に、記憶に課税する「記憶税」の税務官にかんする、完璧に自己へと循環する再帰的構造を持つ(ボルヘスを思わせる)短い小説と、「引用、出典」とされる引用集がある。
で、(マイケル・フリードの翻訳に思わずニヤっとしてしまったりする)引用集のなかに、直接的には税とは関係ない、赤瀬川原平の千円札裁判についての記述があった。ボストン茶会事件もマタイの召命も、大雑把に言えば税=国家からの脱落・脱出という出来事だろうし、自己循環ループによって「記憶税」を内側から崩壊させようとする小説も、脱・税(脱・国家)的プロセスを表しているので、「贋金」としての流通を目的としない(「模造することそのもの」が目的である)貨幣の手描きによる模造によって、脱・国家的振る舞いをする赤瀬川源平がここにいるのは納得できる(「手描きによる模像」は、既製品を90度回転させて横倒しにすることで異化するレディメイドの振る舞いの「反転」と言えるかもしれない)。
脱・国家的な振る舞いは、国家のエッジにおいて現れることにより、国家の存在(のある側面)を可視化する。
そこでぼくが(作品の外にあるものとして)連想したのが、ブルース・スターリングの短編小説「招き猫」と、ビットコインのことだった。
「招き猫」は、コンピューターのマッチングによって、あるものを必要とする人と、それを容易に手に入れることができる人とを、互いに匿名のまま繋ぐことで、とても活発な贈与経済が成立しているという世界を描いている(贈与経済のコミュニティの名が「招き猫」)。この贈与経済は、貨幣経済と両立しているが、貨幣を媒介としない場合も多いので、「税」を課すことが難しい(あるいは、課税できる貨幣経済を縮小させる)。そこで、このユートピア的な贈与経済コミュニティに国家が「脱税だ」として介入してくる。「招き猫」の活動は直接的には税に対する抵抗ではないが、結果として脱・税(脱・国家)的な振る舞いとなっている。この楽天的な小説では、国家のエージェントが酷い目にあって終わるわけだが。この小説でも、「税」をめぐって、国家と脱・国家との境界領域が示される。
また、ブロックチェーンという技術によって中央銀行という存在を必要としないビットコインのリバタリアニズム的な理念は、国家に所属しない通貨であり、つまり「お前ら(国家)の勝手な金融政策によって貨幣の価値が増えたり減ったりするのは我慢できない」ということであろう。しかし当然、「国家」がこれを黙って見過ごすことはなく、「暗号通貨」は、(「通貨」とは国家の後ろ盾があるものでなければならないとして)「暗号資産」と呼び替えられて、課税が可能であるように法的規制の網に捕獲され、国家の管理下に置かれる。とはいえ、暗号通貨は未だ、完全には国家に内属している(捕捉されている)わけではない。これもまた、国家と脱・国家のエッジにある。
⚫︎ぼくは、これまでスマホのタッチ機能を使ったことがなかった。スイカなど通常はカードを使っているし、PayPayはQRコードだ。なのでまず、会場でどうしたらいいのか全然わからなかった。とりあえずスマホをかざしてみたものの、なんの反応もなかったので、え、これどういうこと、写真に撮るの ? 、QRコードリーダーみたいなアプリをインストールしないといけないの ?、廉価Androidだからダメなのか ? 、と、「???」状態になった。ギャラリーの人に聞けばいいのだが、展示空間で、その作品をどう観たらいいのかということを自分で発見することまで含めてが「美術作品を観る」といことだ、と信じているので、普段から「解説」めいたものは(事前には)できるだけみないようにしているので、自力でなんとかしたい。仕方ないのでNFCタグ(その時点では銀色で丸い「それ」が「NFCタグ」というものだとは知らなかった)をグーグルグラスで検索して、それが「スマホのタッチ機能で使われるNFCタグ」だということを知り、スマホによっては設定でオフになっていることがあるからチェックして、と書かれていたので、設定の中から「NFC」を探して、オンになっていることを確認する。うーん、これでいいはずだけど、と、改めてスマホをNFCタグにかざしてみる。不思議なもので、何が何だかわからないままでスマホを「それ」に近づけていたときにはなんの反応もなかったのに、「これでいいはずだ」と思ってかざすと、何度か微妙に角度を変えているうちにスマホがビビーッと振動して、おおっ、来た、となって、まずはキャプションのテキストを手に入れることができた。しかし、どうしたら良いか分からずにあわあわしているあいだにけっこう時間が経っていて、トークの時間になってしまい、トークの後にまた改めて、と思って、トークの会場へ移動した。
(「事前に解説は見ない」と言っているのと「作品をちゃんと観ていないうちにトークを聞く」というのは矛盾しているが、あわあわしているうちにそうせざるを得なくなってしまった。)
⚫︎トークは、ここまで踏み込んだ話をしてこそトークをやる意味があるといった自負を感じる、大変に興味深いものだった。
記憶で書くので正確ではないと思うが(あくまでぼくの主観的語り直しでしかないという点を強調するが)、大岩さんは制作における倫理として、自分の作品には謎や仄めかしのようなものは作らず、すべてが明示的に示され、読解可能な形で配置されるようにすると言う(この態度はモダニズムからきている、と)。たとえばカードゲームにおいては、すべてのカードが事前に明示的に存在し、隠されているものは何もない。後から追加されたり、途中でなくなったりすることはない。しかし、ゲームが始まることによって、プレイヤーに対してカードは隠され、プレイの時間が起動する。同様に、インスタレーションにおいても、事前にすべてが明示的に(読解が可能であるように)配置され、それらはあらかじめ明かされている。しかし、観客がその内部に入ることで、観客各々において、それを読み解く時間やプロセスが発生する。このようなことに興味を持って作品を作っている、と。
(多くの小説を書く人は、その中に謎や仄めかしを仕込み、それによって「深さ」のイリュージョンを作り出すのだし、多くの読者はその「謎=深さ」の感触を味わうように小説を読むと思うが、ここで提示されている「記憶税」についての小説は、明確な構造とそれを形づくる具体的細部のテクスチャーのみでできていて、「深さ」のイリュージョンを構成しないようにできている。ここに、「小説を書く人」としてのこの作家の特徴があるように思う。ただ、この小説にも「深さ」の感覚を与えているものがあり、それは「謎」ではなく「換喩的連想」であると思われる。それはインスタレーションにも通じるのではないか。)
ただし、そのような作品を作る作家であっても、そこには制作に対する「機嫌」というものがある。この作品はわりと機嫌の良い作品であり、対して別の作品はあまり機嫌が良くない、ということとがある。たとえば十和田市美術館の展示(ぼくは観ていないので知らないが)では、東京から3時間以上かけてやってくる人に、ただ「紙」だけを見せてやろうというサディスティックとも言える感情があった、と。しかしそれは、作品の内部には書き込まれないし、作品をめぐる言説(批評や作家のステイトメント、キュレーターによるコンセプトの表明など)にも書き込まれない。このようなトークの場で語られることもない(だからあえて、今回はこの話をすることにした)。だとしてもそのような「機嫌」は、作品のモチベーションや制作の方向性に深く関与するものとして確かに「ある」。作家が、このような「機嫌」に従い「機嫌」に左右されることは積極的に肯定されるべきではないか、と。
⚫︎展覧会の会場に戻り、ミニマルな展示空間の中でNFCタグを探して歩き回り、見つけるとスマホをかざし、その場に立ったままでスマホを凝視して長文を読み耽るという奇妙な振る舞いをする人たちの中にまじって、そのような人々を眺めつつ、自分もそのように行動する。観客たちが互いに相手の「観客としての振る舞い」を見合っている演劇のような不思議な感じがある。この展示空間が、舞台装置であると同時に一つの戯曲のように作用し、観客≒俳優たちにそのような動きを促す(というか、ほぼ強要する)。もちろん、なんだよこれ、ダンボールが置いてあるだけじゃねえか、わけわかんねー、と言って帰る「自由」もある。
ぼくはこれままで「ボストン茶会事件」という歴史的事実を知らなかった。この展示に来たことで「NFCタグ」と「ボストン茶会事件」という、少なくとも二つの新たな事柄を学んだことになる。アリスのティーパーティーや米澤穂信の小市民シリーズを連想させるようなかわいい名がついているが、イギリスが一方的に押し付けてきた「茶」への関税に反発した植民地(アメリカ)側の人たちが、先住民族に変装して港に停泊する茶葉を輸入する船に強引に乗り込んで、積み荷だった342箱もの茶葉をすべて海に投棄したという、アメリカの独立戦争のきっかけともなった事件だという。思わずWikipediaを読み込んでしまうような、複雑な背景を持つ面白い事件だが、この事件が四つの横倒しにされた段ボール箱(箱のサイズは歴史的事実に従っているようだ)によって「喩」されている。
この四つの段ボールは、ギャラリーのガラス張りの面の前に並んでいる。ガラス面を背後にしてNFCタグを読み取って、スマホの画面でテキストを読んでいたが、ふと顔を上げると、(とても暑くて日差しが強かった)段ボール箱の向こう側に設置された白い壁に強い光が当たって、外にある街路樹の影がさしてゆらゆらと揺れていた。それがあまりに美しいので、テキストもインスタレーションも忘れて、しばらくそれを眺めていた。
その壁の向こうの、一つ奥の空間では、カラヴァッジョの「マタイの召命」で描かれた空間が、アームとその先の照明器具、小さな机とイスによって、とても簡素な形で再現されている。カラヴァッジョの絵では、机の上に硬貨が置かれているのが見えるが、その場所に(銀色で丸い、硬貨のようでもある)NFCタグが設置されている。この絵は、収税所で働いていたマタイが、キリストからの呼びかけによって彼に従い、そこを離れるという「マタイによる福音書」に書かれた出来事が描かれている。この絵も、「マタイによる福音書」の一節も、机の上にあるNFCタグによって呼び出される。NFCタグからのレファレンスがなければ、この空間がカラヴァッジョの絵の再現であることにはまず気づけないだろうし、MFCタグが「硬貨との類似」によってこの展示空間に召喚されたことにも気づけなかっただろう。逆に言えば、(インターネット空間によってとても遠くから「ここ」までやってくる)レファランスがありさえすれば、この簡素なしつらえを、カラヴァッジョの絵画空間として「見立てる」ことができ、それがまさに「カラヴァッジョの空間」として立ち上がってくる。これもまた、とても演劇的な出来事ではないだろうか、と思った。