2001-09-01から1ヶ月間の記事一覧

岡崎乾二郎の『歴史とよばれる絵画』について、あるいは『A.I』再び

●『歴史とよばれる絵画』という文章は、絶妙な配置と接続によって成り立っている。だから、この文章が『A.I』という具体的な映画作品と切り離されて読まれてしまうと、とても危ういことになる。文章の前半、小林秀雄が引用されている場面においては、岡崎氏…

岡崎乾二郎の『歴史とよばれる絵画』について、あるいは『A.I』再び

●確かに「はじめて映画を見る人間」(と言うのは抽象的な概念なのだが)は、そこから何を見たらいいのかわからずに混乱するだけかもしれない。たとえば子供は、実写よりも何を見るべきかがはっきりしているアニメーションを好むだろう。人が映画を観て混乱しな…

岡崎乾二郎の『歴史とよばれる絵画』について、あるいは『A.I』再び

(昨日からのつづき。) ●岡崎氏は『歴史とよばれる絵画』を、小林秀雄の『無常という事』の冒頭に引用されている『一言芳談抄』の一節から始めている。それは中世、「比叡の御社」でひとりの若い女が巫女になりすまして、深夜一心に「どうだろうとこうだろう…

岡崎乾二郎の『歴史とよばれる絵画』について、あるいは『A.I』再び

●作品とよばれるものは基本的に、(いわゆる複製芸術に限らず)一回的で唯一の出来事ではなくて、それ自身が反復としてある。例えばある絵画が、この世に2つとない唯一のオリジナルであり、どのような再現的な対象をもたない抽象的なものであったとしても、そ…

ある日のこと。

アトリエからの帰り。空いた電車から、夜遅い、人気のないホームに降りる。誰も乗っていないエスカレーターが、音もたてずに動いているのを、下から見上げる。いや、電車が行ってしまって静かになると、微かにジーッという音が聞こえる。でもそれは、自動販…

 01/9/23(日)

日曜日の朝から、テレビをつけていると本当に気が滅入るばかりだ。アメリカが戦争をするのは当然のことであり、それに対して日本が協力するのもまた当然で、それに反対する奴は、平和ボケした、国際感覚の欠如した常識知らずだ、ということがごく平然と、「…

新宿ピット・インで、Evan Parker

連日の新宿ピット・イン。今日は Evan Parker(ソプラノ・サックス)。 Evan Parkerの演奏は、昨日のカン・テーファンのような「聞こえてこない感じ」というか「聞きづらい」感じは全く無くて、分り易すぎるほど分り易くて、明解である。しかしその明解さは、…

新宿ピット・インで、カン・テーファン

新宿ピット・インで、カン・テーファン(アルト・サックス)。今回は、ピアノの佐藤允彦、ボーカルのさがゆき、とのトリオ。ぼくはただのカン・テーファン好きで、いわゆるフリー・ミュージックに明るい訳ではないので、的外れな感想かも分らないのだけど、即…

01/9/19(水)

代表(表象)するものと代表(表象)されるものとの間には、必然的で安定した関係がある訳ではなく、それは常に危うくて、ズレや亀裂とともにあるしかない。シニフィアンとシニフィエの関係は、恣意的なものでしかない。または、本来何の関係もないはずの2つの…

ある日のこと。

日射しの強い午前中。大きな木の上の方から、太い枝がバサッと落下し、しばらくしてまたバサッと落ちた。見上げると、高い所で植木屋が枝を切り落としているのだった。木の近く(地面の上)にはさらに別の2人がいて、1人は小刀のようなものを振り上げて落ち…

01/9/17(月)

これはあくまでウワサに過ぎず、ウワサというのはどこまでも無責任なものなのだから、こんな時期にはウワサをどう扱うのかとても難しいところなのだが、アメリカではアラブ系の人たちへの嫌がらせや暴力が頻発していて、それがあまりに酷いので、報道はそれ…

 01/9/16(日)

批評空間Webでの柄谷行人の発言は、やはり、多くの人の指針になるような重要なものだった。柄谷氏の発言をおおまかに要約すると、(1)既に人々は「発狂」しており、戦争は避けられないし、混乱は3、4年は続くだろう。しかもこの戦争に「勝者」はいないだろう…

『庭園の会話・3』展(菊池敏直・是枝開・馬場恵・松浦寿夫)を観に行く

お茶の水にある文房堂ギャラリーに『庭園の会話・3』展(菊池敏直・是枝開・馬場恵・松浦寿夫)を観に行く。この4人の作家の絵画作品で、観る価値があると思われるのは松浦寿夫(松浦寿輝ではないです。念のため。)の作品だけだった。(まあ、始めから松浦氏の作…

01/9/15(土)

それを観ていた時は疲れていたせいか流してしまったのだけど、後から思いだして恐ろしいと感じたのは、テレビでハイジャックの実行犯の1人が通っていたという航空学校の近くの人々へのインタビューをやっていて、そこで多くの人が、「彼らが笑っているとこ…

01/9/14(金)

●テロリストたちを、「理解不能な他者」として、そのような他者と「主体」はどのように関係することが出来るのか、といった倫理的というか哲学的な問題として今回の事件をみようとする人がいるが、しかしこれは、そのような抽象的な問題とは違うのではないだ…

01/9/13(木)

●飛行機がビルに突っ込んでゆく、あれらの映像は、様々な立場の人、恐らく報道カメラマンや現地の人や観光客などによって、様々な偶然や必然から撮影され、その映像が報道機関へ回収されてゆく道筋もそれぞれ違うものであったはずだ。テレビを観ていたら、そ…

01/9/12(水)

●1日じゅうテレビを観ていた。まるでハリウッド映画を思わせるような映像に、どうしてもリアリティーを感じられない、みたいな話があるけど、目に見えるだけの映像だけからリアリティーなどそうそう感じられるはずなど始めからないのであって、起きてしまっ…

01/9/11(火)

とんでもないことが起こってしまった。と言うか、起こりつつある、というべきだろうけど。これからもいろいろと最悪な展開が予想される。世界はどうなってしまうのだろうか。今は、できるだけ冷静に事態の推移を見ておくしかないのだが。

天気の話/相米慎二の死

●不安定な天気。割合明るい曇り空から、いきなり多量の水が落ちてくる。しかしそれはほどなく小雨にかわり、サラリとやんでしまう。湿って乱れた風が空気中に混じり込み、目には見えないマーブリング模様をつくる。吹き荒れる風が木々の枝や葉を不均一に揺り…

松田聖子の『青いフォトグラフ』/80年代は彼方へ

黒いワゴン車が道端で止り、ドアが開いてオッサンが降りてきた。開いたドアの中から松田聖子の『青いフォトグラフ』(たしかこんなタイトルだったと思う)が聞こえてきた。♪今一瞬あなたが好きよ/明日になれば分らないわ/港の引き込み線を/渡る時そう呟いた...…

『世界の始まりへの旅』について、その4

『世界の始まりへの旅』を構成するショットは無人称的であり、主観性は排されているのだが、その無人称の視線は基本的に「旅する人物」たちの傍らにいて、彼らとともに移動しているような視線である。しかし時おり、いきなりという感じでそれとは「異質のシ…

『世界の始まりへの旅』について、その3

オリヴェイラの映画においては、視線は容易には交わらない。人々は大概向かい合わずに並んでいるし、切り返しはギクシャクする。誰かがある人物を見つめていたとしても、その視線は一方的なものであって、相手からは見返されない。(例えば『アブラハム渓谷』…

『世界の始まりへの旅』について、その2

浅田彰氏の「i-critique」によると、オリヴェイラの『クレーヴの奥方』は古典的なテクストを悠然としたテンポで完璧に映画化したものだが、大時代的で紙芝居のようなものでもあり、そのことに自覚的なオリヴェイラは、映画のラストにブルジョアたちの世界の…

『nobody』の雑誌版への違和感/クレール・ドゥニへの違和感

昨日、BOX東中野で『nobody』の雑誌版を手に入れた。大絶賛という訳にはいかないけど、それなりに興味深い内容だった。「佐藤公美インタビュー」が載っているというだけでもコアなファンは必見だろうし、まだ公開されていない(近日公開という話も聞かない…

オリヴェイラの『世界の始まりへの旅』

BOX東中野で、オリヴェイラの『世界の始まりへの旅』。これを今まで観ていなかったなんて、恥ずかしくて言えない。冒頭から最後までのあらゆるショットが刺激的で、一瞬も息をつく暇なく見入ってしまう。なにしろ、レナード・ベルタによって完璧なまでに…

トムの真夏の死

アトリエの隣の犬はいつの間にかいなくなっていて、まあ、多分死んでしまったのだろうと思うけど、隣のオバさんに、トムは死んじゃったんですか、とはなかなか聞きづらくて(オバさんも特に何も言わないし)、いつも通りの挨拶と気候の話なんかをしたただけだ…

ビデオで、相米慎二の『風花』

ビデオで、相米慎二の『風花』。相米の新作を公開時に劇場で観なかったのは、考えてみれば初めてのことだ。ぼくにとって相米は最初の映画作家であり、青春の映画作家であるのだ。蓮實を読んだりゴダールに衝撃を受けたり黒沢清に熱狂したりするよりも前に、…