04/12/23

●ごちゃごちゃとめんどくさい言葉を並べるよりも、実際に会ってその人の顔を見るだけですんなりと分かることがある、という事実は圧倒的なものとしてあるし、面と向かって話さなければ通じないような事柄もあるということも、忘れてはならないだろう。ただ、それと、作品をつくったり、作品を受容したりするというような、作品を媒介にしたコミュニケーションとは、そのあり方のチャンネルが異なるし、あるいは(ほとんどぶつぶつと呟かれる独り言みたいなものに終始しているとはいえ、一応不特定の人が読む可能性があること、つまり誰が読んでいるのか分からないということををある程度意識して書かれる)この日記を書くことでやろうとしていること(そんな大それたことではないが)も、チャンネルが異なる。重要なのはこの複数のチャンネルの違い(それぞれの独立性)を維持し、どれか特定のチャンネルを特権化して、それ以外を特権化した一つのチャンネルに従属させたりしないということだと思う。(これはぼくが東浩紀の本から学んだ最大のことだ。)「私」がひとつの身体しか持たず、特定の時代の特定の地域で、特定の人間関係のなかで生きるしかない限定された存在であり、まさに限定されているからこそ、その偶発的な「特定」のものが、かけがえの無い、交換不可能な、大切なものであるということの重要性と、「作品」をつくること、あるいはそれを受容することで、「私」がそのなかで生きるしかない「特定の」限定された時代や人間関係から(具体的な時間や空間から)解き放たれた、ことなるスパン、ことなるパースペクティブでの関係や認識やコミュニケーションが成り立つかもしれないと期待し、それにむけて努力することの重要性とでは、はじめから次元が異なるし、いっしょくたにはすべきではない。(つまり「作品」はけっして「ライブ=生もの」ではない。)しかし、この違いをきちんと維持することは、実際にはかなりむつかしい。例えばもしぼくがセザンヌと同時代に同じ地域に住んでいて知り合う機会があったとしたら、セザンヌという人間が大嫌いになり、その作品をろくすっぽ観ることなどしなかったかもしれないのだ。
●年末になり、普段お会いする機会のない人と会う機会があったり、それがお酒の席だったりすると、酔った勢いでぽろっと出た言葉などから、やはりこの人は「本当は(?)」こんな風に思っていたんだなあ、と分かったりして、普段は引きこもりがちな生活を送っているぼくなどは、それはそれでとても面白いし楽しい。しかし一方で、だからこそその面白さや楽しさ(あるいは否応無く巻き込まれるような面倒臭さや、かけられる圧力)に、「作品をつくること」が引っ張られてしまってはまずいという思いも、同時に強く抱かざるを得ない。作品をつくるためには、やはり徹底して引きこもらないと(ライブ=生ものの場から撤退しないと)駄目なのだと、改めて思わされる。逆に言えば、複数の次元のチャンネルを混同することさえしなければ、具体的な人間関係に対して、それほど禁欲的になる必要もないのかなあ、とも思う。