2012-01-01から1ヶ月間の記事一覧

●送り手(作り手)と受け手を分けて考えることが、何か大きな、根本的な間違いであるように思う。例えば、野球を好きな人は、身体や健康上の理由などがなければ、大抵、自分でもやろうとするものではないだろうか。草野球のチームに入るというところまで行かな…

●寒さで五時ころに目が覚めてしまい、その後も寒くて眠れなかったので、朝の五時半くらいからDVDで『ブルー・ベルベット』を観ていた。かなり久しぶりに観たのだか、すごく面白かった。前半はちょっと凡庸じゃないかと思うところもあったけど、中盤以降は完…

●お知らせ。30日発売の「映画芸術」438号の「2011 日本映画ベストテン&ワーストテン」に参加しています。真正に参加しているとは言えないような参加の仕方ですが、これは「逃げ」ではなく、ぼくなりの「ガチ」のつもりです。とはいえ、かなり悩んでのことな…

●昨日の続き。二つの抽象性、イメージを上へと越えてゆこうとするメタ・イメージとしての抽象性(超越性)と、イメージの下に潜り込むプレ・イメージとしての抽象性(潜在性)について。これらは真逆のようでいて、例えば一つの式「2X=Y」から生まれる二つの効…

●二つの抽象性というのが考えられるのではないか。上へ向かう超越性として、メタ・イメージとして象徴となろうとする抽象と、下へともぐりこむ潜在性としての、プレ・イメージとしての抽象。 例えば「2X=Y」という単純な式について考えてみる。この式は、こ…

●昨日ちらっと書いたウィニコットの話は、「二人称の思考」のモデルとして単純だし分かり易いと思うのでざっくりと書いておく。特に本を引っ張り出して参照したりしないで記憶で書くので、用語などはいい加減です。 完璧に良い母親とは、子供の欲求に少しも…

●二人称の思考というものがある。たとえば次の例のような。 《ミクロな視点では連続的に運動し、マクロな視点では或る時点で不連続が見出される。このとき、我々は創発概念を見出すことになる。ならば創発は二重基準の創りだす幻想に過ぎず、基本的にミクロ…

●本棚の奥から引っ張り出してきた『野ウサギの走り』をパラパラみていて、「出エジプト」というインタビュー(本当にインタビューなのか、そういう体裁で書かれたテキストなのか分からないけど)をみつけた。この時、中沢新一は、現在「流動的な知性」と呼んで…

●お知らせ。明日(24日)の東京新聞夕刊に、千葉市美術館でやっている「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展の評が載ります。 ●試合をちゃんと観たわけじゃなくて、昨日、スポーツニュースの短い映像から感じただけなのだが、卓球って実はすごく面白いんじゃな…

●「好き/嫌い」について口にするのはどこか恥ずかしい、というか、はしたないことのように思える。でも、はしたなさを回避することが必ずしも良いことではないから、あえて「私は○○が好きだ」と言うことには意味があると思う。でも、「私は○○が嫌いだ」と言…

●ドラマ化された『その街の今は』がフジテレビで放送されると知らされたので、観た。小説に書かれていることと、それを「テレビドラマ」として成立させることとを両立させるためのいろいろな試行錯誤が感じられて(俳優の選び方とかも、これ以上派手にしたら…

●みんなが同じ条件、同じルールのもとで競争するのが平等だと言う考えが基本的に間違っていて、みんなが同じ条件で争えば、その条件にもともと最適化していた人が一人勝ちするに決まっている。そこで、同じ土俵に上らないで済むために必要な条件は、大きな流…

●前にも書いたけど、ずっと使っていたDVDプレイヤーが壊れてしまったので、今は、三千円弱で買えるポータブルプレイヤーを使っているのだが、これは、持ち運びして出先のどこででも観られるというやつで、それ自身に小さなモニターがついている。DVDで映画を…

●『熊から王へ』、とりあえず最後まで行った。これはとても良い本だった。2002年に出た本だけど(9・11直後の講義録)、何故これを十年前に読まなかったのかと後悔するくらいに。八十年代から九十年代には中沢新一を何冊かは読んでいるはずで、でもそれ以降あ…

●『カイエ・ソバージュ2 熊から王へ』(中沢新一)を読み始めた(五章まで読んだ)。『人類最古の哲学』は、どう読んだらいいのか上手く掴めない感じだったけど、これはすごく面白い。「神話」ということで何が言いたいのかがだいぶ掴めてきた。『魂と体、脳』と…

●散歩をしていてふと思った。昨日の日記で、『魂と体、脳』について暑苦しい感じで書いたけど、でもそれはこの本に限った話ではなく、「哲学」というのはつまり、そういうことをするということなのではないか、と。 というか、ぼくにとって哲学が必要なのだ…

●昨日の日記の書き方だと、ちょっと自分の関心の方に惹きつけすぎていて、『魂と体、脳』を読んでない人が読むと、偏っていて鬱陶しい感じの本ではないかという間違った先入観を持ってしまうかもしれない。しかし、『魂と体、脳』を読んでまず感じられるのは…

●『魂と体、脳』(西川アサキ)、とりあえず最後まで行った。この本は基本的に、モナドロジーという特異な世界観(設定)から、いかにして常識的に納得されるような形の心身関係が構成(創発)されてゆくのかという過程がシミュレーションとして描かれていると言え…

●『魂と体、脳』(西川アサキ)、第六章。六章を読むのに四日くらいかかってしまった。それは、内容がハードだということもあるが、あまりに恐ろしくて先に進むことに対しての無意識の抵抗が働いているからではないかと思う。昨年末にこの本を読み始めた時に風…

●今年になってから撮った写真(今日撮ったものも含まれる)。

●抽象性や形式性について考えていると、抽象的なものの具体的な手触りとしか言えないものに突き当たる。その時、我々が具体的なもの、具体的な感触として感じているものが、抽象的なものによってこそ成り立っているのではないかという気持ちになってくる。 ●…

●つづき。去年の12月後半に撮った写真、その2。

●去年の12月後半に撮った写真。

●年末に風邪をひいて中断してから遠ざかってしまっていた『魂と体、脳』(西川アサキ)の続きを読む。五章と六章。本文にも書かれているけど、この本は面白そうなところから拾い読みをするという風には読めなくて、頭から順番に論旨を追ってゆくような本で、そ…

●お知らせ。七日発売の「新潮」二月号に『一一一一一』(福永信)の書評を、「文藝」2012年春号に『蜩の声』(古井由吉)の書評を書いています。 ●近代美術館の「ぬぐ絵画」は、日本近代絵画にもまた、日本近代文学と同型の問題があったということを、「裸婦」(…

●千葉市美術館で、「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、国立近代美術館で、「ぬぐ絵画」。 ●「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は予想を超えて充実していた。1923年、「大ガラス」の構想を未完成のまま放棄して以来、死までの四十年以上の間、デュシャンは…

●形態と線のみが問題となるドローイングであれば、それを描くときに必ずしも「視覚」を必要としない。あるいは、視覚は本質的な問題ではない。なぜならそこで問題になるのが、一定のフレーム(空間)内での運動であり、複数の運動の構築(構築的重ね書き)である…

●時々、夢に出てくる大木がある。その木のある四辻より先は、異界というのは大げさとしても、日常的に親しんでいる領域から外れて見知らぬ土地に入る。あるいは、どこともしれない場所を彷徨っていても、その木を発見できれば、そこから見知った領域に戻るこ…

●実家で、親戚たちとの新年会。圧倒的な主役は、去年の五月に生まれた弟夫婦の子供。そもそも、実家に弟夫婦が到着するより前に既に実家じゅうが孫の写真で埋め尽くされている。子供を見ると、やはりいろいろと感じるものがある。そして、子供に対する周囲の…

●今年最初の映画としてDVDで『恐怖』(高橋洋)を観ていた。改めてこの映画が自分にとっていかに重要なのかを思った。変な言い方だが、すべてのカット、すべてのモンタージュ(そして構成)が、他ではなくこうであるということについて、いちいち腑に落ちる(厳密…