2010-09-01から1ヶ月間の記事一覧

●お知らせ。明日、十月一日の東京新聞、夕刊に、川村記念美術館で今やっているバーネット・ニューマン展についての記事が載るはずです。 ●喫茶店からの帰り道、午後十一時過ぎ、コンビニの前を通ると、「二十四時を過ぎるとタバコが値上げになりまーす」と言…

●夢。家と家との間の狭いドブのような用水路のなかを大勢の人がほふく前進させられている。ずっと先まで、ずっと後ろまで、ずっとつづいている。そのなかにぼくもいる。どこに向かっているのかわからない。 ●夢。高校の教室には学生がびっしり詰まっている。…

●忙しいわけではまったくないのだが、余裕がない。描くでも書くでも、集中してはじめてしまうと外のことがまったく見えなくなる。それを気にする容量が頭に残ってないので、外の時間の流れとリンクできなくなる。まだ一カ月くらい先のことだな、と思っていた…

●書くことと描くことは違う。それは別種の実践である。書くことは、描くことについての説明ではない。描くことについて書こうとしても、双方はどうしてもすれ違ってしまう。画家としてマティス論をやろうと思えば、それは書くことによってではなく、描くこと…

●お知らせ。下北沢の現代ハイツ(http://www.gendaiheights.fc2.com/)での個展の会期が、12月9日から21日に決まりました。3月から4月に吉祥寺の百年で、7月に埼玉県立近代美術館で展示があって、そして12月にもあるので、今年は、対自的にだけで…

●お知らせ。「ユリイカ」10月号(特集・安倍吉俊)の、『乱暴と待機』(本谷有希子/冨永昌敬)小特集で映画版についての小論を書いています。タイトルは「回帰と反復」。 (http://www.seidosha.co.jp/index.php?%B0%C2%C7%DC%B5%C8%BD%D3) この映画は小…

●『あっぷあっぷ』(福永信・村瀬恭子)を改めて読む。すごく面白い。こういう本を、古本屋で高値がつく稀少本みたいなものにしてはいけないと思う。『星座から見た地球』の、ある意味とても平易な形式は、『あっぷあっぷ』の難解さのなかからこそ生まれたよ…

●昨日、曜日を間違えたので改めて下北沢へ。スズナリの脇の道に入って、住宅街をちょっと歩いたところ。で、今年の十一月か十二月に、下北沢の現代ハイツ(http://www.gendaiheights.fc2.com/)で個展をすることになった。 併設されているカフェで打ち合わせ…

●今日は暑かった。しかし、天気予報では明日からは気温が下がるということなので、今年最後のこの暑さを味わうために少しうろうろ歩く。近所の地蔵の脇に生えている栗の木にはイガグリがびっしりついているという時期なのに、腕に当たる日差しがビリビリと痛…

●相原にある東京造形大学に「camaboco」を観に行った(http://www.zokei.ac.jp/painting/camaboco/)。新しいアトリエ(絵画棟)が出来て解体されることになった(既に使われていない)旧アトリエで、作家として活動している卒業生の作品と現役の学…

●なんか、『日本の夜と霧』(大島渚)を観たことは、自分で思っている以上にぼくにショックを与えているようだ(16日の日記参照のこと)。 ●世代を細分化する語りは常に退屈だと思う。世代を細分化する語りが言いたいのは、要するに「俺らの世代は特別だ」…

●前にも何度か書いたことがあると思うけど、ぼくは川村記念美術館のロスコ・ルームにはやや批判的だ。簡単に言えば演出過多だと思う。あの場所に立って感じる色彩の圧力の多くは、作品そのものからくると言うより、作品のサイズや数に比べて部屋が狭い(細長…

●昨日は、川村記念美術館にバーネット・ニューマンを観に行っていた。九月から、東京駅と美術館とを結ぶ直行バスみたいなのが一日に一本だけ出ていて、はじめてそれを利用したのだが、すっごく楽だった。交通費も、たぶん電車で行くより安くなる(東京駅から…

●以下は、15日の日記に対する上田和彦さんからの反論(http://d.hatena.ne.jp/uedakazuhiko/20100916/p1)への応答です。とはいえ、上田さんの反論の趣旨がいまいちよく分からないので、勘所を外した、もわっとした、独り言みたいなものになっているかもし…

●今日は、川村記念美術館にバーネット・ニューマンを観に行こうと思って早起きしたのだが、大雨が降っていて、天気予報でも一日雨だと言っていたので、延期することにした。しかし、十時前には小降りになった。でも、それから出かける支度をしたのではもう遅…

●まだ正式に決まっていることは何もないのだが、もしかすると十二月くらいに個展が出来るかもしれなくて、その個展に関連したイベントとかもするかもしれない。「〜かもしれない」が二つ重なるという、きわめてもやっとした段階のもやっとした話でしかないの…

●シャワーを浴びた後にすんなりと汗が引いたのは何ヶ月ぶりだろうかと思った。でも、外に出るとまだまだ蒸し暑い。強い日差しがない分、じわじわと責められるような暑さ。前を歩く短髪のお兄ちゃんは、手に大きなタオルを持ち、顔、額、首、頭を順番にぬぐい…

●福永信のABCDたちは皆、消滅への指向、あるいは出現への躊躇、というような、「露わな存在(というより、存在への定着)」への抵抗という傾向性をもっている。そこに、『星座から見た地球』という一見きわめてかわいらしい話たちが、その裏側に、不穏さ…

●四十歳を過ぎた今でも、恐怖の底の無さとか、悲しみの深さとか、怒りの抑えがたさとか、どうしていいのかわからずおろおろしてしまうとか、そいいう根底的な感情の有り様(強さや鮮やかさ)や、その心の動きの制御出来無さは、小学生くらいの頃と、ほとんど…

●以下は、思いつきを記述した、きわめて粗雑なもので、厳密さはない。 ドゥルーズ=ガタリは芸術の起源を動物にまで拡張している(「リトゥルネロについて」)。テリトリーをもつ動物は既に表現の質への生成変化をもつ、と。テリトリーを囲い、そこに看板を…

●午前中や夜中に点けっぱなしにしておくことはあっても、これを観ようと意識的にテレビ番組を観ることはほとんどないのだが、今日は久しぶりに「世界ふれあい街歩き」を(たまたまだけど)観た。磁器口という名前の中国の古い街で、高台にあって、ひたすら迷…

●相米慎二は9・11を知らなかったし、永遠に知ることはないのだ、ということは、人の死について考える時にいつも思い浮かぶことだけど(自分が死んだ後の世界を考えるという意味でも)、でも、そんなこととは関係なく、相米の作品はありつづけている、とい…

●ここ数日、公開に先立ってサンプル版でいただいた『乱暴と待機』(冨永昌敬)のDVDを繰り返し観て、それとともに、『亀虫』、『オリエンテ・リング』、『コンナオトナノオンナノコ』などを観直した。正直言って、『パンドラの匣』を観た時には、冨永昌敬…

●住んでいるアパートから最寄りの駅まで歩いて十二、三分(軽い坂道)というのは、駅に近いとは言えないが、駅から遠いと言うほどでもない。しかし、駅まで来たところで忘れ物に気づくと、顔をしかめて心のなかで「あーっ」と嘆きつつ一つため息をつくくらい…

●樫村晴香によるドゥルーズへの批判のキモになるのは、強度−反復が直接的に象徴的なもの(シニフィアンの連鎖)を組み替え、意味を生産し得るかのような記述(二重のセリーの理論)に対して、それはあり得ないという点にあると思われる(「ドゥルーズのどこが…

●夢。ちゃぶ台がわりの、蒲団のかかっていない出しっぱなし炬燵の下から、編みカゴを取り出すと、そのなかにあるマッチは湿気ていて、火をつける頭の部分が異様に膨らんでいた。握り拳くらいあるマッチの頭を擦って火をつけようとする。何度擦ってもなかなか…

●テレビをつけっぱなしにして他の用事をしていた。番組がかわる一瞬の沈黙の後、「十時になりました、ニュースをお伝えします」というNHKの男性アナウンサーの声が、「宇宙人がいました、ニュースをお伝えします」に聞こえて一瞬驚いた。勿論、すぐに、あ…

●すぐれた作品には、そうではない作品にはない固有の「質」がある(あるいは「質」に触れている)。その質(の客観性)を信じるということが「作品」を信じるということである。それは、すぐれた職人が、精密機械の部品に使用可能な精度で特定の物質を手作業…

●まだまだ暑いとはいえ、九月になって、この暑さもあと何ヶ月もつづくというわけではないと思うと、八月中はひたすらうんざりするしかなかったこの暑さが(というよりも、日中のこの光の強さが)、とても貴重なものに思えてきて、長時間の散歩はまだ無理だけ…

●選択とか戦略とかいう言葉を、ぼくはどうしても信じられない。結局、人は、自分にはこれしか出来ないということを、自分にはこういう風にしか出来ないというやり方でする以外ないんじゃないかと思う。自らの運命を徹底してまっとうする以外に、自由なんてな…