2005-01-01から1ヶ月間の記事一覧

『悔いあらためて』(橋本治・糸井重里)

●昔話みたくなっちゃうのは嫌なのだが、『悔いあらためて』という80年に出た橋本治と糸井重里の対談の本があって、ふと思い立ってパラパラめくり返してみたのだが、いきなり冒頭からの素晴らしさにガツンとやられたのだった。ここで若き日の橋本治は、自分が…

●今日は出来れば映画を観にゆきたかったのだが、制作の区切りが上手く都合つかずに、断念する。 ●前にも似たようなことを書いたかも知れないのだが、ぼくの作品において「色彩」はおそらく「自律」したもの、純粋に視覚的なものではない。例えば、青は空の色…

●この日記は、どんなにつまらないことでも、とにかく可能な限り毎日書くということを基本にしている。つまり、書くべきこと、書きたいことがあるから書くのではなく、毎日書くと決めたから「何かしら」書くのだ。しかしそんなことに何の意味があるのか。 ど…

●昨日も書いた通りなにかと余裕がないのだが、困難な状況でその貧しいなけなしの余裕のほぼ全てを使ってしているのは絵を描くことで(4月に個展が迫っている)、絵を描くには本当に湯水のように贅沢に時間を使うことが必要なのだった。これはたんにじっくりと…

●昨年末からいろいろあって、なにかと余裕がない。(これは時間的なものというよりも、精神的なものなのだけど。)それを端的にあらわしているのが、最近ほとんど「小説が読めない」という事実だろう。読みたいと思う小説を買って来ても、なかなか読めないのだ…

一昨日、『動くな、死ね、蘇れ!』(カネフスキー)を観ていて思ったの

●一昨日、『動くな、死ね、蘇れ!』(カネフスキー)を観ていて思ったのは、この映画の生々しいリアリティは、「夢」のようにつくられているからではないか、ということだった。保坂和志は確か『世界を肯定する哲学』で、人はある年齢に達すると世界に対してた…

●天気がよく、わりあいと暖かい。電車に乗り、席に坐ると、向かい側の窓のフレームいっぱいに青い空がひろがる。画材屋でたくさんの木枠と画布を買い、その、傍目から見たら何が入っているのかと怪しく思えるだろう背丈ほどもある大きな包み(画材屋の名前が…

『動くな、死ね、蘇れ!』(カネフスキー)

●日々の生活が、辛いとか、厳しいとかいう思いに圧迫されてしまうような時には、『動くな、死ね、蘇れ!』(カネフスキー)のような映画を観るとよい。(ぼくは新宿のツタヤでビデオを借りた。)全く逃げ場もない、どうしようもなく過酷な環境のただなかにいて、…

鈴木清順『悲愁物語』

●鈴木清順『悲愁物語』をビデオで。この映画が凄いなんていうことを今更言ってみてもしょうがないのだけど、改めて観て思ったのは、この映画の(鈴木清順の映画のなかでも特異的な)凄さを映画作家としての鈴木清順の「作家性」に還元してしまうのはあまり面白…

●今日は、ちょっと良い絵が描けたっぽいので、とてもうれしい。それにしても、一日中ずっと絵を描いていると、こんなバカっぽい言葉しか出てこないことから考えても、絵を描くことと、言葉を使うことは、頭の使い方が根本的に異なるのだなあと思う。 ●絵を描…

●昔、夜中にいなり寿司が食べたくて仕方なくなるというコンビニのCMがあったけど、それと同じように、ふと、観たくなってしまい、新宿のツタヤを覗いて、曾根中生『わたしのSEX白書 絶頂度』(76年)と鈴木清順『悲愁物語』(77年)のビデオを借りてきて、『わた…

フレデリック・ワイズマン『アメリカン・バレエ・シアター』

●フレデリック・ワイズマン『アメリカン・バレエ・シアター』をDVDで。ぼくという観客にとってこの映画は「豚に真珠」というやつで、ぼくはバレエについては何もしらない。ABTというのがバレエの世界でどのような位置づけにあるのか、この映画に出てくるダン…

●夢のなかでかろやかに跳ねるように階段を昇っていて、そのせいで、眠りながらも実際に足が蹴り上げるようにびくんと動いてしまい、その自分の動きで目が覚めた。あと、具体的な内容は忘れてしまったのだが、夢のなかで、この夢は昨日も同じものをみた、と思…

●渡部直己による斉藤環批判、『徴候としての「批評」』(文學界2月)から感じた、ちょっとした違和感を巡って。 ●言語が作動する時、そこには常に原初的な対象関係(母親との関係)や象徴界への参入時における外傷が呼び出され、「愛(依存と支配への欲望)」や「…

●バカみたいな話だけど、やっぱり小春日和はいいなあと思う。身体の隅々まで溜まった緊張が緩んでゆく感じがする。昨日の冷たい雨は夕方過ぎにはあがり、夜もそれほど冷え込まず、今朝は久しぶりの良い天気で冷え込みもきつくない。心地よいあたたかさと光と…

●昨日からつづく雨は朝方にはいったん弱くなり、通りを行く人々も、傘をさす人とささない人が半々くらいの降りで、雲に覆われてはいても空は白く明るく、湿ったアスファルトの地面はそれを反射して白く輝き、空と地面の中間、ちょうど人が歩き、人が生息し、…

●芥川賞を誰が受賞しようが、しまいが、(それが「自分のこと」でもない限り)それ自体にはほとんど興味はないのだが、『グランドフィナーレ』(阿部和重)は、作品として「良いもの」だと言えるかどうかは別として、重要な作品であるように思う。確かに、小説と…

●丹生谷貴志『幽霊論』(「三島由紀夫とフーコー 不在の思考」)より、引用。 《「幽霊性」或いは「単独者性」は哲学的省察に値しないというのではない。或る意味でそれは、そうした省察を超過してしまうのだ。哲学的省察が「本質」を巡るものであるとすれば、…

『エレニの旅』と牧ゆかり展

●京橋のメディアボックス試写室で、テオ・アンゲロプロス『エレニの旅』。とにかく「映画って凄い」ということを、その映像と音によってたちあげられる圧倒的なイメージで突きつけられ、突きつけられっぱなしの2時間50分なのだった。ファーストショットから…

●昨日の「安定性」についての話のつづき。実際には世界はそんなに安定などしていないし、だから「私」と「世界」との関係を安定して持続させることは困難だろう。しかしだからこそ、目の前の次々と移り変わる風景に翻弄されることなく、一定の努力なり探求な…

●例えば「友情」のような、世界と自分との「長期で安定的な関係」を媒介してくれるようなものの存在が人間が生きるのには、あるいは何かを深く追求するためには必要なのだとぼくは思っていて、つまり日々更新される新鮮さや世界の新たなあり様を感じ取るため…

『ガラスの仮面』(美内すずえ)42巻

●人から借りて『ガラスの仮面』(美内すずえ)42巻を読んだ。「偽日記」を書きはじめてから5年以上たつけど、『ガラスの仮面』の41巻が出たのはそれよりもさらに前のことだった。もはや、話がどんな繋がりだったかすっかり忘れてしまっているのだが、しかし、…

●ふと思い出したのだけど、今年の元旦の昼間、帰省した実家でぼんやりとテレビを観ていて、番組はNHKの正月恒例の演芸番組(お笑いとかバラエティーとかではなく「演芸」)で、普段テレビではほとんどお目にかかれないような、この道何十年で、しかもほとんど…

●「よりぬき偽日記」(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/yorinuki-i.html)に、「THE SOCIETY FOR THE STUDY OF MODEN VISUAL CULTURE(映画、読書、その他・33)」と「PHANTOMS IN THE BRAIN(映画、読書、その他・34)」と「THE THING FROM ANOTHER WORL…

橋本治『生きる歓び』

●昨年末に読んだ『蝶のゆくえ』(橋本治)がすばらしかった(1月2日の日記参照)ので、『生きる歓び』を読み返した。『蝶のゆくえ』は一日で読んでしまったのだが、『生きる歓び』は何日もかけで、一編ずつじっくりと読んだ。 ●『生きる歓び』に収録されている短…

ジャック・リヴェット『Mの物語』

●ジャック・リヴェット『Mの物語』をDVDで。これは、まさにリヴェットの映画というべきもので、この映画を劇場で見逃したことを悔やむ。ただ、この映画の素晴らしいラストが、(それ自体としては素晴らしいとは思うのだが)そのラストに至るまでのリヴェット的…

●降り積もったばかりの時はあれほど白くやわらかく瑞々しい雪も、雪かきで隅に寄せられ積み上げられたままで凍結してしまい、何日たっても溶けずにそのままで日陰で薄汚れると、捨て場に困る粗大ゴミのように自らの容積を持て余した道ばたの場所塞ぎとなって…

ブリヂストン美術館で、ザオ・ウーキー展

05/01/04(火) ●ブリヂストン美術館で、ザオ・ウーキー展。この展覧会は複数の人から勧められていたのでちょっと期待していたのだが、ぼくにはイマイチという感じだった。何というか「分かりすぎる」という感じ。とても趣味がよく、かつ勉強熱心で、その時期…

●別に、空ばかりをぼーっと見上げて生きているわけではなくても、嫌でも向こうから目に飛び込んでくるような空の日というのがあって、そういう時には視線は自然と空へと向かうことになる。意識的に見ようとしなくても、人の目は見るべきものには目がいくよう…

橋本治『蝶のゆくえ』

●実家で年明けを迎えるなんていうのは何年ぶりかのことで、ましてや、紅白歌合戦をはじめから最後まで通して観るなんていうことは、小学生の時以来なのではないか。画面の隅のほうにちょこちょこと映っていたので、今年は華原朋美も出ているのか、と思ったら…